第11話 BAD DREAMS①ー昔の記憶ー

五年前 

王城旋おうじょうぜん 十六歳


 家族旅行の最中だった。

 突然の訃報は宿泊先の旅館で知らされた。

 母が弟のあおいと散歩に出掛けた矢先の出来事だった。

 交通事故に巻き込まれたのだ。

 目撃者の話によれば、母と弟が歩いているところにトラックが突っ込んだらしい。

 弟はかすり傷程度で命に別状はなかった。

 目撃者の話によれば、母が身を挺して迫りくるトラックから弟を守ったそうだ。

 トラックはそのまま電柱に激突し、ドライバーは即死だった。

 母はトラックの下敷きになり、息を引き取るまで少しの時間があったそうだ。

 部屋で留守番をしていた父は警察から事故の話を聞いてすぐに現場へ向かったが、旋は放心状態でその場から動けなかった。


 母が身を挺して葵を守ったと聞いて、母の行動の尊さを知った。愛する人の、命の価値を知った。母が命がけで守った弟を、母の分まで自分が全力で守るべきだという信念が生まれた。

 だから部活を辞めて、高校卒業後の進路は就職を選んだ。仕事柄あまり家にいられない父に代わり、葵の側にいて葵の将来を守るためだった。

 もちろん葵にこの話はしていない。

 他人から見れば、自分の人生を顧みない行為だとしても、旋の中では自らの信念に基づく当たり前の選択だった。


   □


 旋が母の死を思い出したのは、自分の命を顧みずに助けた弟を殺しかけたからだろう。

 母が死んだのは五年前の今頃のことだった。

(なんて皮肉な話だ)

 旋の脳裏に朝の出来事が思い浮かぶ。

 葵の指から流れた血を目にしてすぐのことだ。

 今まで味わったことのない『食欲』に意識が支配され、自我が遠のいていく感覚。

 それを『食欲』と言っていいか自信を持って判断できないが、体の状態は空腹時に近かった。

 気づいた時には葵の首筋に噛みついていた。葵の怯えた顔。苦悶の表情が忘れられない。

(俺はなんてことをしたんだ……)

 旋は罪悪感に苛まれ頭を抱えた。

 その時だった。前方から歩いてくる女性の気配を感じ、無意識に女性へ視線を向ける。そして沸々とわきあがる『食欲』。

 旋は薄れゆく意識の中、欲望に忠実であろうとするもう一人の自分を抑えこむように電柱の陰に隠れて視界を遮った。

 大量の唾液が否応なく生成され地面へ滴り落ちていく。

(俺は一体どうなっちまったんだ)

 自身の異常さに表情が歪み、涙が出てくる。

 旋は自宅を飛び出してから住宅地を当てもなく彷徨っていた。その間、老若男女関係なくすれ違う人に対して『食欲』がむっくりと姿を現し、気を抜けば意識を乗っ取られそうになった。

「昨日だ。昨日の帰り道で何かあったんだ」

 今朝に思い出そうとして思い出せなかった昨夜の記憶が、現状の自分を理解する鍵になると直感した。

 旋は道行く人に危害を加えないように近くの公園の隅に植わった木の陰でうずくまり、固く目を閉じた。

 そして昨夜の帰り道に意識を集中させる。

「俺は昨日何をした。どこにいた。海岸通りを歩いて帰ったはずだ。いつもの道を」


   □


 昨夜の記憶を思い出すことはなかった。

 しかし代わりにの姿が脳裏に浮かんだ。

 すると血流が急激に早まり、心拍数が上昇を始めた。それから全身が焼けるように熱くなり、どうしようもない喉の渇きに首を何度も引っ掻いた。体内を流れる血液がマグマに変わったのかと錯覚する。

 しばらくして体調の異変は収まったが、マラソンを完走した後のような疲労感に襲われ、呼吸を整えるのに時間がかかった。

 もう何がなんだかわからなくなった。


 男との面識はない。

 その横暴そうな顔をした白人男性は火花の如く逆立てた赤髪と赤い瞳が特徴的で、筋骨隆々の肉体は鋼のようだった。その男は何故か上半身裸の姿だった。

 男の姿が脳裏に浮かんだのと同時に、男が今どこにいるのかを感覚的に理解できた。理由は不明だが、この直感は本能と言い換えができるほど信頼に値し、行動するのに十分な動機となった。

(俺がおかしくなったのはこの男が関係しているのか……)

 おかしなことが連続して起こり心身ともに疲弊していたが、男の登場により問題の糸口を見つけた気がして少しだけ気持ちが楽になった。

「この男に会って話を聞くしかない」

 旋は木陰から表に出るとすぐに走り出した。

 『食欲』に支配されないよう足元に視線を落とし、男に会うことだけに意識を集中した。

(早くこの体を元に戻すんだ)

 はやる気持ちを抑えながら足に込める力も抑えた。

 朝の洗面台での一件で自身の身体能力が上がっていることに気がついた。意識的に力を制御しなければ車より早く走れるだろう。現状で注目を浴びることは周りの人たちのためにも避けたい。

 慣れない力の制御に四苦八苦したが、幸いにも『食欲』から意識を遠ざける結果を生んだ。

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