第8話 確かめにいこう②ー治療をしてもらおうー
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一ノ瀬医院は二人にとって馴染みのある場所で、ここの医師とも仲が良かった。
痛みに顔を歪める葵を至近距離で見つめながら「もう少しの辛抱だから頑張ってくれ」と励ましの声をかけた。
徒歩五分ほどの道のりを三十分以上かけてようやく目的地に到着した。
院内は入口のガラス戸から覗く限り薄暗かった。よく見ると戸の内側に「休診日」と書かれた大きなカードがぶら下がっている。今日は土曜日。忘れていたわけではなかったが急の事態に細かいことが頭から抜けていた。
天馬は医師がここに住んでいることを知っていたのでガラス戸をノックし「すみません」と声をかけた。しかし中から応答はなく外出している可能性が脳裏を過ったが、諦めずにノックを繰り返した。すると奥から人が出てきたのが見えた。
「よかった。コード先生だ」
天馬は葵の治療ができると表情を明るくした。しかし近づいてくる人物が見覚えのない外国人だと気づき困惑した。
すらりとした長身の白人男性は天馬と目が合うと怪訝そうな顔つきをした。
灰色がかった黒髪はどことなくここで医師をしているコード・フェルドマンに似ているが人種が違っていた。昔、本人からアジア系イギリス人だと聞いた覚えがあった。
男には威圧感があった。長身が故に見下ろされているせいと真ん中分けした前髪が細長い目にかかり影を落としているせいもあるだろう。お互い見つめ合ったまま硬直していると男の後ろからコードが姿を現し、入口の鍵を開けた。
「天馬くんに葵くん。どうしたんだい? って怪我してるじゃないか」
葵の右首筋の傷にあてたタオルが血で滲んでいた。コードは慌てて二人を院内に招き入れた。
「先生、休みの日にすみません。葵の怪我を見てほしいんだ」
「もちろんだ」
コードは天馬から葵を預かると待合室で待っているように言った。それから強張った表情のまま佇む白人男性の肩をポンと叩いた。
「スティーブくん、絶望してはいけないよ。彼らはきっと無事だから大丈夫。すまないが僕は彼の手当てをするから終わるまでダイニングで待っていてくれ」
そう彼に告げると葵を連れて奥にある簡易病床へ入っていった。
天馬は二人の背中を見送ると近くのイスに座り、大きく息を吐いた。張り詰めた緊張の糸が解けたのだ。九死に一生を得た気分さえした。
「これで一安心」と独り言を呟く隣で、スティーブと呼ばれた白人男性が大きく深呼吸をした。
「勝手に期待して、勝手に落ち込むな」
そして掌で両頬を打つと診察室や簡易病床が並ぶ廊下へ歩いていき、診察室の向かいにある引き戸を開けて中に入っていった。
天馬はその様子を眺めていたが、彼が姿を消すと再度イスに深く腰掛けて大きく息を吐いた。
□
葵は朦朧としていた。
それは出血によるものなのか、見慣れない血を見たせいなのか、はたまた豹変した兄の姿に混乱しているからなのか判然としなかった。
(兄貴はいったいどこに行ったんだ)
葵は自宅にて兄である
瞳孔が開いた目、獣のように鋭く伸びた犬歯、そこから垂れる大量の涎、そして異様な腕力。だが目に焼き付いたのは正気を取り戻した兄の顔だった。動揺と困惑が入り混じった表情で今にも泣きそうだった。そんな兄を見たおかげか襲われた後でも大きく取り乱すことはなかった。
(兄貴にいったい何があったんだ)
思考は断続的な強い痛みに阻害されて纏まらず今後についての結論は出なかった。それでも考えることがやめられない。この出口のない思考の渦に飲まれた状態は悪夢を見ているようだった。
その悪夢から抜け出せたのは嘘のように痛みが引いたからだった。
「コード先生?」
目の前には知り合いの医師がいた。艶のある黒髪に黒縁メガネ。そして彼のトレードマークといえる白衣と一本に結ばれた少し長めの後ろ髪、人を安心させる柔和な笑みがあった。
「どうして俺はここに?」
「怪我をした君を天馬くんがここまで連れてきたんだよ。覚えていないかい?」
気を失っていたわけではないが家を出てから今までの記憶が曖昧だった。正気を取り戻してようやく自分が一ノ瀬医院のベッドで寝ているのに気がついた。
「意識が朦朧としているのは怪我のショックからだろう。肩の傷は縫合して痛み止めも打ったからしばらく安静にするように」
右首筋から肩にかけて包帯が巻かれていた。
「ありがとう、コード先生」
葵はお礼を言うと天井を見つめた。真っ白な天井は今の心中を表すようだった。思考の渦を脱してからは何も考えられなくなっていた。
「ところで葵くん」
ベッドに横付けした丸イスに座るコードが改まったように声をかけた。
「首筋の傷はどうしたのかな?」
「え?」
コードの質問に朝の出来事がフラッシュバックした。
「朝、キッチンで転んじゃって。そしたら落としたフォークの先がたまたまこっちを向いてて……。気づいたら刺さってた」
葵は作り笑いを浮かべて嘘をついた。正直に話したところで信じてもらえないだろうし、兄に汚名を着せるようで嫌だった。
コードは何かを考えているようで、葵の言葉にしばらく反応しなかった。葵は妙な沈黙に嘘がばれたのではないかと固唾を呑んで彼の様子を見ていた。
「そうか。滅多なこともあるもんだね」
コードはいつものように微笑むとイスから立ち上がった。
「しばらくここで休んでいなさい。すぐに動くと傷口が開くかもしれない」
そう言って部屋を出ていった。
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