第2話 アナザーモーニング②ー王城旋の異変ー

   □ 


 居間に入るとコーヒーの良い匂いがした。

「おはよう。お兄さん」

 入口の向かいにあるL字型のソファーに葵の同級生で隣に住んでいる赤祀天馬あかしてんまが座っていた。彼は自分の家にいるかのようにくつろぎながらコーヒーを飲みテレビを見ていた。

 休日の朝によく見る光景だった。

 旋は挨拶を返すと居間からベランダに出た。大きく背伸びをして眠気が残る体を起こした。

「兄貴、すぐご飯できるよ」

 室内に戻り、ダイニングテーブルの席に着いた旋はテーブルの中央に置かれた山盛りのサラダに目を向けた。

「このサラダ、天馬のリクエストだろ?」

「正解!」

 旋に問われ、天馬はテレビから目を離して返事をした。

「やっぱり野菜が一番おいしいからね」

「俺はベーコンかソーセージが食いたかった」

「朝はヘルシーな方がいいんじゃない? 昨日飲んできたんなら尚更」

「何か今日は調子が良いんだよな……」

 それから二人は他愛のない話で笑っていたが地元である河守市こうもりしに関連するニュースが流れると自然と会話はやんでテレビに目がいった。

「昨夜、河守市で不審な死体が発見されました。死体の首筋には小さな穴が二つ空いており、死因は失血死による……」

「またこのニュースか」

 天馬はコーヒーを飲みながら「河守市の近隣市町でも発見されてるらしいよ」と付け加えた。

「警察は同一の犯人によるものとみて捜査を続けていますが手がかりはなく……」

「ネットじゃ吸血鬼の仕業なんて騒がれてるよ。通り魔ならぬ連続通り吸血鬼事件ってね」

 天馬の情報に旋は「そうなんだ」と他人事のように返した。

 不可解な事件が自分の街で起きているものの実際に目にし、体験していないので現実味はあまりなかった。ましてや吸血鬼なんて空想上の生き物の仕業なんて言われてしまえば尚更だ。

「最近、本当に物騒なんだからあまり帰りが遅くならいないでよ」

 こんがり焼けたトーストをテーブルに置きながら葵は旋に注意した。

「女子高校生でもあるまいし心配ないさ」

「そんなこと言ってるといつか吸血鬼に襲われて自分も吸血鬼になるんだからな」

 葵は呆れながらキッチンに戻ると洗い物を始めた。

「葵はオカルトじみたやつだなー」と二人の話を聞いていた天馬が笑った。葵は洗い物をしながら天馬に文句を言おうと振り返ったが、居間とダイニングを隔てる棚が邪魔をして天馬の姿を確認できなかった。

 いつもこれだ。あの棚は今度どこかに移動しよう、と考えていると洗っていたコップが葵の手からつるりと滑り落ちて流台の中で割れた。

「大丈夫か?」

 旋は物音を聞いて葵に目を向けた。葵の指からじわりと血が出ているのが見えた。

「割れたコップで切ったみたい。でもかすり傷だから大丈夫。俺も兄貴のこと言えないな」と葵は笑いながら反省した。

 しかし葵の声は旋に届いていなかった。

 無性に掻き立てられる空腹に我を忘れかけていたからだ。

 旋は席を立ち、葵のもとへ向かう。

 大量の涎が口の端から流れていく。

 瞳は葵の指を一点に見つめている。

 正確に言うと葵の指から流れる血だ。

 食いたい。食いたい。

 意識が食欲に支配されていく。

 食いたい。食いたい。

 どうしようもない空腹。

 トーストなんかでは満たされない、どうしようもない空腹。

 食いたい。食いたい。


   □


 葵は旋に両肩を掴まれ正面を向かされた。

 急な出来事に初めは動揺したが、正対する兄の人相がいつもと違うことに気づいた。

「どうしたんだよ兄貴」

 いくら呼びかけても反応はなく、食いしばった歯の隙間から涎を垂らしているばかりだった。それによく見ると旋の犬歯二本が異様に長くなっている。

 葵はその様子から旋が何かに取り憑かれているのではないかと考えた。

「誰だお前は––––」

 そう言いかけて葵は呻いた。旋に掴まれている肩が今にも砕けそうなほど痛かった。いくら工事現場で肉体労働をしているとはいえ、肩を握り潰すほどに握力が発達するものなのか。

 葵が痛みに耐えかね呻いた瞬間、旋は葵の右首筋に噛みついた。

 葵の首筋の皮膚が裂け、肉がえぐれる。

 激しい痛みが首筋から全身へと広がっていく。

「うがあぁぁ!!」

 痛みで悲鳴を上げる葵。

「兄貴、しっかりしろ」

 葵は痛みに声を震わせながら旋に声をかける。

 何かに取り憑かれているのなら正気に戻さなければいけない。

「兄貴ぃ!!」

 葵は激しい痛みに耐えながら精一杯の声で兄を呼んだ。


   □


 食欲に支配された意識の中に聞き覚えるのある声が聞こえた。

 それがすぐに弟の声だと気づいた旋は我に返り、ゆっくりと葵の首筋から犬歯を引き抜いた。

 葵の肩から手を離し、後ずさりする。

 俺は何をしたんだ?

 弟の痛みに耐える苦悶の表情に胸が苦しくなる。

 どうして葵を食いたいと思った?

 葵がこっちを見ている。

 俺に一体何が起きたんだ?

「うわああああぁぁぁ!!」

 旋は頭を抱えて叫ぶとそのまま家を飛び出した。


   □ 


 旋に襲われ、その場にへたり込んだ葵のもとに天馬が駆けつけた。

「大声なんて出して一体全体どうしたんだよ。お兄さんも出て行ったし」

 居間とダイニングを仕切る棚が死角になっていたせいで天馬には先ほどまでの二人のやりとりが見えていなかった。葵の叫び声でようやく何かが起きていることに気がついてキッチンに向かったのだった。

「わからない。けど兄貴は、兄貴じゃないかもしれない」

「どういう意味だ? ってお前血が出てるぞ」

 葵の首筋から血が流れ出ており、白いTシャツを赤く染めていた。

 天馬は傷の状態を確かめるため覗き込むように首筋を見ると二つの小さな穴が空いているのがわかった。

「急に兄貴がおかしくなって噛まれたんだ」

 葵は首筋の痛みに顔を引きつらせた。

「これって、さっきニュースでやってた傷に似てない?」

 天馬は神妙な面持ちで葵の顔を見つめた。

 彼の中で嫌な想像が渦巻いていた。

 もしかして河守市近辺で起きている連続通り魔事件は王城旋の仕業ではないか、と。

 その思考は葵の呻き声でかき消された。

(今はそんなことよりも止血だ)

 天馬はキッチンにあったタオルで傷口を押さえて止血した。

「量は少ないけど血が止まらない……」

 傷口に当てたタオルを取って様子を見てみるとぷつりと血が滲むように傷口から出続けていた。

「傷を縫うかしないと失血死するんじゃないか……」

 葵の顔が青ざめていっている気がした。

 実際に流した血の量は多くないものの天馬の嫌な想像が葵の顔に張り付いて、彼にははっきりとそう見えた。目の前の友人が徐々に『死』に向かっている。そんな想像が働きパニックになりそうだった。

「天馬……。一ノ瀬いちのせ医院に連れてって」

 葵は弱々しく言うと天馬は妄想の世界からスッと抜け出して気を持ち直した。

「ああ、そうだな。それがいい。それがベストだ。動揺してそんなことすら思いつかなかった」

 それから天馬は居間の戸棚にあったガムテープを使って傷にあてたタオルがずれないように固定した。

「一ノ瀬医院にはすぐ着くからもう少し辛抱してくれ」

 天馬は葵に肩を貸してゆっくり立たせた。

 多少のふらつきを見せる葵を支えながらゆっくりとした歩みで一ノ瀬医院へ向かった。

 

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