Scene.5
道はゆるやかなカーブを描きながら、海岸線をなぞっていく。陽はずいぶんと西へ傾いていて、僕たちが消費した時間を赤々と空に掲げていた。燃料計は半分を少し過ぎたところだ。元がどれだけ入っていたのか、僕は不思議と思い出せなかった。まあいい、燃料が切れそうになったガソリンスタンドに寄ればいいだけの話だ。それに世界の果てに行くには十分だというのだから、心配することはないだろう。ベロは窓を開けて海岸線を睨んでいる。髪の毛が潮風にあおられて、すっかり出払ったはずのマルボロの香りを鼻先によみがえらせた。
「いたわ」ベロが声を上げた。
「停めてちょうだい」
「分かった」
僕は近くにあったコインパーキングに車をすべり込ませた。車を降りたベロは辺りを見回し、浜へ降りる階段を発見した。ベロが手を差し出した。握り返すと、指先は大理石のように冷え切っていた。ベロは僕の顔を見てから、ゆっくりと歩き出した。僕は彼女に牽かれるまま、歩調を合わせた。階段を一段一段降りていくと、靴底にざらざらとした感触が伝わった。砂浜に踏み込んだ瞬間、それは芯のある柔らかさに変わった。
象と飼育係は、あばら家の傍らに佇んでいた。僕は象について専門的な知識を持たないが、その様子からかなりの高齢であることがうかがえた。身動きといえば長い鼻をわずかに揺らすだけで、砂の上には鼻が往復した跡が幾何学的な文様となって現れていた。飼育係はよく日焼けした小柄な老人で、年齢は六十代にも七十代にも見えた。老人は象の前脚に手を添えて、海を眺めていた(あるいは潮風を嗅いでいたのかもしれないし、何もしていなかったのかもしれない)。彼らはもう千年もそこにいるかのように、ごく自然に存在していた。それはずっとそこにあるのに誰にも気に留められない、公園のオブジェとよく似ていた。
「こんにちは」
ベロが声をかけると、老人はこちらを向いた。いやに丸い耳が目についた。
「こんにちは、お嬢さん」
「おじいさん、ここで何をしているの?」
「何をしているのでしょうねえ」老人は微笑んだ。
「ここに来てずいぶん長いことになりますが、特にこれといってしたことはありません。何かをしようと思って来たわけではないのです」
「何となく歩いてきて、立ち止まったのがここだったってこと?」
「こいつがここを気に入りましてね」老人は象の前脚を撫でた。
「海が好きみたいなんです。日がな一日、波の音を聴いているのです。珍しいのか懐かしいのかは分かりませんが、こいつの気が済むまではここにいるつもりです」
象は二、三度まばたいて、その眼をこちらに向けた。人間には持ち得ない知性の光があった。長いまつ毛が潮風に揺れた。
「あなたがたは、何をされているのですか?」
「世界の果てに行く途中よ。おじいさんと象さんは経由地点なの」
「ほう」この突拍子もない言葉に、老人は深く、何度もうなづいた。
「そうですか。それならば、私たちがここにいる意味は、あったということですな」
彼に応じるように、象はかすかに鳴いた。マイルス・デイヴィスのソロのように、寂しくも熱を持った音色だった。
「この象は、あなたが動物園から引き取られたのですか?」
僕は訊ねた。老人は首を振った。
「結果的にはそうなってしまったのですが、引き取ったわけではありません。正規の手続きを踏んでいないのですから」
「まさか、脱走させたのですか?」
「そういうことになりましょうか。こいつは象舎に頑丈な鉄の輪と鎖で繋がれていましたが、ある日、繋がれていない状態になりましてね」
老人は奇妙な言い回しをした。それは鉄の輪が外れたということとは違うのだろうか。
「違うのです。鉄の輪が外れたのでも、鎖が切れたのでもありません。言葉でうまく説明することができませんが、輪も鎖もそのままに、こいつは自由の身になったのです。そして私たちは一緒に動物園を出ました。誰にも見とがめられることはありませんでした。それから長い時間が経って、私たちはここに辿り着いたのです」
老人は海に顔を向けて目を細めた。肌に刻まれたしわに深い影が伸びた。老人の言葉に偽りはないように思えた。不可思議な出来事もあったものだが、そういうことはままあるのだろう。見ず知らずの女の子と世界の果てに行くことだってあるのだから。
「私たちに話しかけたのは、あなたがたが初めてなのですよ。今日は特別な日になりました」
「わたしもよ。今日はみんなにとって特別な日だわ」
ベロはそう言って笑った。老人も笑った。
僕とベロは老人からバナナをもらい、象に食べさせた。象は長い鼻を器用に動かして、またたく間に二房をたいらげた。そして僕たちは象の身体を撫でた。皮膚は固かったが、その下に確かな血の巡りを感じた。象は鼻先で僕の手に触れた。あたたかな息が指を湿らせた。
沖に群れていたかもめが一斉に飛び立ったのを潮時に、僕たちはその場を辞することにした。去り際にベロは老人に訊ねた。
「おじいさん、お名前を聞かせて」
「ワタナベノボルといいます」
「ワタナベノボルさん、あなたに会えてよかったわ。いつまでもお元気で」
「あなたがたも、無事に世界の果てまで行けますように」
ワタナベノボルは丁寧に頭を下げ、立ち去る僕たちを見送った。
階段を上るときに、僕は一度だけ振り返った。おそらく見間違いだろう、並んで佇む象と飼育係の大きさは、さほど差がないように思えた。象が小さくなっていたのか飼育係が大きくなっていたのか、それは分からなかったけれど。
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