懐かしの人

 厩舎の中を歩きながら、デューンの態度は変わらなかった。

 別に一本とってうれしそうでもないし、シーラを苛立たせて困っている様子もなかった。

 次の黒馬の鼻を撫でて、

「じゃあ、これもクロだったのか?」

 などと、つぶやいている。

「いいえ! その子は……チョビクロちゃんです!」

 デューンの後を追い、ついつい、説明している自分にも腹が立った。

 シーラは深呼吸し、肩をいからせて言った。

「……い、い、言っておきますけれど、私、あなたを婚約者と認めたわけではないから。そんな絆、全然感じていないから!」

 デューンは、何も反応しなかった。

 ただ、チョビクロちゃんと呼ばれた馬の首を叩き、少しだけ目を細めた。

 そして、急に、思いがけないことを言い出した。

「シーラ、大きな馬に乗ってみたいか?」

「うん!」

 馬好きなシーラには、美味しい餌だった。思わず、今までの怒りを忘れて、元気よく返事をしてしまった。

「あ……でも……」

 シーラは、急にたじろいだ。

「私、大きな馬には乗ったことがないの。鞍も手綱も使い方知らないし。だから、きっとうまく乗れないと思う」

「冷静な分析だな。勇気と無謀を混同しない」

 我ながら消極的――臆病と思われるかと思ったが、デューンは好ましくとってくれた。

 いつの間にか苛立ちがおさまって、本当に自分が冷静な女の子になったようで、シーラは不思議に思った。

「明日から練習してみるか?」

「いいの?」


 牧場では、大きな馬に乗りたくても乗せてもらえなかった。

 シーラは、遠目で疾走する馬たちを見て、ポニーで走り回っていた。

 いわば、憧れだった。


 馬が急に騒がしくなってきた。飼い付けの時間が迫っている。

 デューンが言った。

「我々も、もう戻らないと。明日から、早朝に馬だ。寝坊しないように」

「夜、眠れないし、朝、起きれない」

「朝だ。勉強の前に」

「……わかったわ」

 シーラは、しぶしぶ返事をした。

 自信がない。しかも、興奮してますます眠れないかも知れない。今までは、ルナが起こしてくれていた。

 だが、これ以上時間で文句を言えば、せっかくのチャンスがなくなるかも知れない。

 ――徹夜してでも、早朝に厩舎につかなければ。



 厩舎から戻る時は、すでに薄暗くなっていた。

 デューンとシーラは、並んで屋敷への道を歩いていた。

「ルナは……どうして裏切ったの?」

 シーラはデューンに質問した。

 気になってどうしようもなかったことだった。

「裏切ったのではなく、裏切れなかったようだ。ルナは、子供の頃、オイリア家に世話になったことがわかった。はじめから、モアラ家には間者として送られてきたらしい」

 顔の表情ひとつ変えずに、淡々とデューンが答えた。

 シーラには、明るくてハキハキしたルナしか思い浮かばない。間者として育てられたルナなど……。

「秘密を知ってしまったら、仕事を遂行するしかない。それが、ウーレンの間者の宿命だ」

「……もしかしたら」

 シーラは怖くなってきた。

「私かも知れない。ルナは、私を毎朝起こしに来ていたの。もしかしたら、寝言で……」

 ルナは、眠っているシーラに、何か問いかけはしなかっただろうか? そして、シーラは……答えたように思う。

「あなたのせいじゃない。むしろ、間者であることに気がつかなかった我々のせいだ」

 デューンは微笑んだ。

「それに……あなたに教えた秘密よりも、ルナはもっと重大な秘密を探し当てていた。優秀な間者だったから、仕方がない」

 シーラは、ほっとしたと同時に、拍子抜けもした。

 知っていたことなど、ほんの一握りのことだった。それで、あれだけ不安な日々を送ってしまったのだから……。


 ――今後、この家で本当に暮らせるのかしら?

 に、逃げやしないけれど、ふ、不安。



 屋敷の近くに人がいた。

 シーラの姿をみるなり、一歩二歩と近づいて、やがて、走りだした。ちょっと小太りの女性だ。

「シーラ様!」

 その声に、聞き覚えが……というよりも、忘れようがなかった。

「カーラ?」

 はあはあ、と息を切らしながら、シーラの乳母はやってきた。その姿を見て、シーラも走りより、飛びついた。

 以前は、この乳母から逃げ出してばかりだったのに。

「どうしたの? どうしてここに?」

 シーラの乳母は、シーラが牧場を去った後、お払い箱になり、故郷へ帰ったと聞いていた。そこで、貧乏な子供たちに読み書きを教えるらしいと。

「いやね、急な話だけど、ここに空きができたからこないかって話でね。王族様の家で雇われるなんて思わないから、ビビったわ。まさか、とって食わんだろうってね」

「……カーラ。あの……」

 シーラは、思わず言葉に困った。

「は、何? 何か……あら?」

 おしゃべりな乳母は、やっと隣のデューンに気がついたらしい。彼は、目上の女性に敬意を示し、胸に手を当てた。



 ベッドに入るまでの世話を、牧場時代のようにカーラはしてくれた。いや、シーラはそれ以上に甘えてしまっていた。

 うんと子供に戻ったように。今までの埋め合わせをするように。

「嫌だ、嫌だ! もっとお話聞きたい!」

「もう寝てくださいな、明日、早いんですよ」

 カーラはあきれながらも、話してくれた。

 カーラの話では、一家まとめてモアラ家に雇われたそうだ。

 数日後に、家族がモアラ家に移ってくる。夫と息子は、馬の世話係として、厩舎で働けるそうだ。

「ギルトラント様が亡くなられてね、やはり田舎は物騒になったよ。だから、本当に助かったよ。シーラ様様だね」

「どうして? 私が雇ったわけではないのに」

「でも、シーラ様がいたからですよ。モアラの奥様が、必死に私を探させた……って、話ですから」

「デイオリアが?」

 シーラは、ふと優しいデイオリアの顔を思い浮かべた。 

 思えば、あのままだったら、シーラは殺されていた。デイオリアに助けてもらったのだ。

 だが、どうしても、人を殺して平然としているデイオリアの顔しか、思い出せなくて。

 あの事件以来、デイオリアとは顔を合わせないようにして過ごしてしまった。

(私ったら……命を助けてもらったお礼さえ、言っていない)

 神妙な顔になったシーラに、カーラがふふふ……と笑った。

「シーラ様が、私恋しくて泣いているって聞きましたよ」

「そ、そんなはず、ないでしょ!」

「ええ、私も、シーラ様に限って、そんなしおらしいことはないと、言っておきました」

「カーラ!」

「しおらしいなら、早く寝なさい!」

 ぽかっと頭を叩かれて、シーラはベッドに押し込まれた。


 ――昔に戻ったみたい。


 ポニー、クロちゃんたち、そして、カーラ。

(明日は、久しぶりにデイオリアとお昼を食べようっと)

 シーラは、久しぶりにほっとして、よく眠ることができた。

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