懐かしの馬

 シーラは、何度も何度も、ポニーの首を愛撫した。

 そして、たてがみに捕まると、裸馬のまま、またがった。

「ポニー、走ろう!」

 馬は、シーラの声を聞き分けて、走り出した。

 芝生がどんどん飛んで行った。

 足に、お尻に、馬の鼓動を感じる。

 風を切りながら、シーラは涙した。


 ――馬は、裏切らないのね。


 ルナも、モアラ家の人々も、デルフューンの両親も、たった一人の姉も、シーラには信じられなかった。

 本当に心があるのか、それとも、打算で生きているのが当たり前なのか?

 そのために、仲良しのふりをしたり、人を殺したり、勝手に結婚させたり、させられたり……。

 人の心なんて、信じられない。


 小さな生け垣が前に見えた。

 牧場時代は、よく飛び越えていた高さである。

「ポニー! あれ、飛ぼう!」

 馬はシーラの願い通り、見事な飛躍で、生け垣を飛び越えた。が……。

 シーラのほうは、馬が宙に浮かんだとたん、さらに放り上げられてしまった。

 馬が着地したと同時に、シーラも前方に投げ出され、地面に背中から落ちた。

「い、いたーっ!」

 大げさに声をあげたら、笑えてきた。

 都に出て以来、馬には乗っていなかった。腕が落ちたようだ。

 地面に転げたシーラの顔を、ポニーはぺろぺろなめまくった。


 青空がまぶしかった。

 久しぶりの、草と土の匂い。

 シーラは、大の字に寝転がったまま、大きく深呼吸した。

「ところで……おまえ、どうしてここにいるの?」

 ポニーは、首を傾げたままだ。

「……聞いたって、わかりっこないわね」



 カツカツと、ポニー以外の蹄の音がした。

 シーラは、慌てて体を起こした。漆黒の見事な馬がいた。

「驚いたな。さすが、デルフューン家の娘だ」

 馬上から、デューンが声をかけた。

「鞍なし、手綱なしか?」

 シーラは、顔を硬直させた。

 デューンだって……信じられない人の代表格だ。

「追いかけてきたの?」

 デューンは答えなかった。

 シーラが落馬しなかったら、おそらく見失っただろう。

「まさか、あなたがそこまで乗れるとは思わなかった」

 デューンは馬から飛び降りた。

 もこもこの毛をなでると、ポニーはすぐにデューンにもなついた。

 シーラは、すこし悔しい気持ちになった。自分とポニーの間に、ずけずけと入り込まれたような気がしたのだ。

 だが、デューンの黒馬を見て、シーラは驚いて立ち上がった。

「! この子は!」

「気がついたのか? この馬は、デルフューン家の牧場で生まれた」

「もちろんよ! クロちゃんだわ!」

 シーラは懐かしそうに目を細めた。

「今は、私の馬だ。ノエルと名をつけた」

「クロちゃん」

 懐かしい名を呼ばれた馬は、シーラに甘え切っていた。

 今度は、デューンが苦笑する番だった。


 ウーレンの王族は、十歳になった子供に馬を与える風習がある。その馬は、子供の一生涯の友となるのだ。

 ノエルは、デューンが十歳の誕生日に、父から贈られた馬である。


 ……ということは、シーラはこの「クロちゃん」と三、四歳の時に遊んでいたのだ。

 よほど馬が好きで、一緒にいたのだろう。

「モアラ家の馬は、ほとんどが王立牧場から買い入れたものだ。つまり、デルフューン家の。見たいか?」

「ええ!」

 ふさぎ込んでいたのが信じられないほど、シーラは元気な返事をした。




 牧場ほどの規模ではないものの、モアラ家の厩舎は大きくて立派だった。

 それ以上に、黒で統一された馬の見事さは、ウーレンに誇れるものだった。王宮の厩舎に次ぐレベルだろう。

 でも、何よりもシーラには、牧場出身の馬ばかり……というのが、うれしかった。

「この馬は、何と呼んでいた?」

 大きな馬の前で、デューンが聞いた。

「オオクロちゃん」

「? じゃあ、こちらは?」

「チビクロちゃん」

 シーラは、さらりと答えた。

「では、この馬は」

「クロクロちゃん」

「……」

 デューンは、ややあきれていた。

 馬房から、にょきっと顔を出した馬を見て、シーラは走りよって言った。

「あ、この子は、クロちゃん!」

「私の馬と同じ名か?」

「うん、だってこの子、クロちゃんが出て行ってから、すぐ生まれたの」

「だからって、みんな、クロか?」

 シーラはうつむいた。

「……どの子もみんな、すぐ牧場からいなくなるんですもの」


 馬の世界は厳しい。

 生まれた馬が、すべて使えるとは限らない。買い手がつかない馬は見切られる。買い手がついた馬も、すぐに牧場を後にする。

 毎年生まれて、毎年去ってゆく馬たちを、シーラは見て育った。


「馬に思いを込めて名前を付けちゃ駄目なの。情が移っちゃうから、それって、馬のためにならないんですって」

 しんみりと、シーラが言った。

「でも、ポニーはずっといるの。女の子には、必要なんですって!」

 デューンは苦笑いした。

 ポニーとは、小さな馬の総称だ。誰もがそう呼んでいたので、シーラは馬の名前だと勘違いしたのだろう。

 おそらく、あの馬は、シーラよりも前から牧場にいたのだろう。元気そうだが、歯を見ればかなりの年齢だとわかる。

 それにポニーは、趣味で飼われていたわけではない。種付けの時の当て馬だ。だが、シーラは知らないに違いない。

 足元を見られ、デルフューンの牧場から買い取るのに、ずいぶんと吹っかけられた。

 だが、それだけの価値はあった。


 デューンは、黒馬の一頭の頬を撫でながら、シーラが喜びそうな話をした。

「十歳になったら、父があなたに馬を贈る。思いを込めて、名をつけるといい」

 シーラは、一瞬、ぱっと明るい顔をした。が、すぐにうつむいた。

「……でも……。私、ここから出て行くことにする」

「なぜ?」

「……なぜって」

 シーラは、はっきり言えなかった。言葉にすると、目の前に状況が浮かんでしまう。

 だが、デューンは気がついたようだった。

「ルナの事は、母も気を痛めている」

「で、でも! あ、あんな! あ……」

 シーラは青ざめた。

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