間者

 モアラ家の兵士たちは、壁から距離を置いて、うろうろしていた。

 隙を見て飛びかかろうにも、高さのある場所だ。よじ上らなければならず、その間に何が起きるかわからない。

 オイリア家が放った間者・ルナは、荷物になるシーラを、最後の楯として、連れ回していたのだ。

 モアラ家でもっとも弱く、もっとも大切にされている少女を――。

「馬を用意しろ! この娘を助けたいならば!」

 ざわざわと兵士たちが動く。

「早く!」

 ルナが、苛々と怒鳴った。

 一部の兵士が、走り去った。馬を取りにいったらしい。

 シーラの頬に、熱いものが伝わった。涙ではなく、血だった。

 だが、痛さは感じなかった。もっと、痛い所があった。

「ルナ」

「静かにしろ!」

 シーラの知っているルナではなかった。


 こんな事態に陥っているのに、シーラはまだ信じられなかった。

 夢を見ているようである。

 今日という朝がやってきたのか? それとも、まだ夜でベッドの中で、悪夢にうなされているだけなのか?

 だが、走り回っただけあって、シーラの息はまだ上がっていたし、頬の傷は時間が経つにつれて、じくじくと痛みだした。

 命の心配をしなければいけないのに、怖いという実感すらない。

 ただ、きょとんと成り行きを見守っているだけなのだ。危険にさらされている当事者だというのに。


 やがて、馬が運ばれて来た。

 立派な黒馬だった。馬装もされていて、今直ぐにでも走りだせそうだった。

 ルナは、やっと少しホッとしたような笑顔を見せた。

「みんな離れろ! 壁から離れろ! 私が馬に乗るまでだ。いいな!」

 兵士たちは、ぞろぞろと壁から離れだした。

 ルナは、シーラを抱きかかえたまま、壁から飛び降りようと身構えた。

 その時。


 ――シュッ!


 と、風を切る音がした。

 シーラを抱きしめるルナの手が緩んだ。

 まるで、時が止まりそうなくらい、物事はゆっくり進んで見えた。

 シーラの目の前で、ルナの瞳から生気がなくなった。ゆっくりと崩れ落ちる彼女の後頭部に、深々と矢が突き刺さっていたのだ。

 バフッと、彼女の口から、血が噴き出した。

「ルナ?」

 声をかけたシーラの前で、ルナだったものは、ゆっくり倒れ、そのまま壁の下に落下した。

 地面に落ちたルナの頭の辺りから、ゆっくりと赤い血の輪が広がってゆくのが見えた。

 何が起きたのか、全くわからなかった。

 シーラは、高い壁の上でキョロキョロと辺りを見渡した。

 城壁の内側で、弓を下ろした人が見えた。

 長身の女性――デイオリアだった。


 ルナに、この屋敷が敵に占拠されたと聞いた時、シーラは真っ先にデイオリアのことを心配した。

 だが、それは全くの危惧・不要な心配だった。

 体を上下に揺らしながら歩くものの、彼女は立派な戦士だった。


「調べよ!」

 シーラが聞いたことのないデイオリアの声だった。

 壁の反対側では、兵士たちがルナを調べ始めた。彼女の胸元から、小さな巻き紙が見つかった。

「ありました! 密書のようです」

「こちらにもってこい! あとは、不要。始末しろ!」

 兵士が、ルナの足を引っ張って動かした。

 ルナが乗って逃げるはずの馬に、何人か掛かりで屍が乗せられた。

 シーラは、高台から見ているだけだった。

 誰か兵士が、敷地内のほうから声をかけた。

「シーラ様、降りられますか? お怪我はありませんでしたか?」

 シーラは、何度か首を振った。

「……嫌」

「はい? 動けないようでしたら、今そちらに」

「嫌!」

 シーラは、激しく首を振った。

「やめて! 誰もこないで! 私に触らないで!」


 触れていた手から、命が消えていった……。


 ――嫌! 嫌! 嫌! こんなの、嫌!


 もう誰も信じられない!

 兵士が敵なのか、味方なのか。

 何が正しくて、何が間違っているのか。


 ――誰も、私にかまわないで!

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