逃走

 がさっという音で、シーラは目が覚めた。

 ここに来てからというもの、寝つけない夜ばかりだが、さすがに熟睡していたらしい。もう朝だった。

 モアラ家での、何度目かの朝。

 なのに、まだまだ見慣れない高い天井と、そこを飾るレリーフ。ベッドも枕も、なじんではいない。

 自分の部屋であることは間違いないのだが、まだ牧場にいた時の感覚を忘れないでいる。

 朝、目が覚めると牧場にいる――と思っては、毎朝、いつもがっかりしている。

 でも、そのようないつもの朝でもないことを、シーラは既に感じていた。

 何か、殺気立っている。

 今度は、慌ただしい音。廊下を誰かが激しく走り去る音だ。

 シーラは、ベッドの中で聞き耳をたてた。


「シーラ様」

 小声がした。ルナの声だ。

 シーラは、キョロキョロしたが、ルナの姿は見えなかった。

「シーラ様、お騒ぎになりませんよう……。お声をあげませんよう……」

 再びルナの声。

「ルナ?」

 シーラは、ベッドの下を覗き込んだ。

 そこに、いつの間にか、ルナが忍び込んでいた。

「いったいどうしたの?」

「しぃ、静かに! 危険が忍び寄っています」

 とたんに、シーラは緊張した。

 ベッドの下のルナは、いつもの穏やかな感じはなく、ギラギラした目を向けていた。すでに、かなりの距離を逃げてきたのか、汗で髪が額に張り付いついている。

「たくさんの兵隊が、屋敷にいます。ここは占拠されてしまいました」

「占拠? ですって!」

「お声が高いっ!」

 シーラは慌てて、口を塞いだ。

 一言多いのは、どうも癖なのか? 命取りになりそうだ。

 だが、いったいどうしたわけだろう?

 屋敷は、数日のうちに警備堅固になったはず。それに、リュートやデューンも帰って来た。

(そんな簡単に、占拠……だなんて)

 シーラは混乱した。

(これって……夢?)

 頬をつねってみたが、泣けるほど痛かった。夢ではないらしい。


 ――デューンはどうしたのだろう? デイオリアは……。


 特に義足のデイオリアのことが気になった。

 歩けるとはいえ、あの足だ。敵から逃げることは難しい。

 シーラは、うろたえた。

「ねぇ、ルナ。私はいったいどうしたら?」

 声をひそめて、ベッドの下に聞く。

「あなたは、デルフューン家のものですから、命はおそらく狙われません。でも、ここから逃げ出さなければ。まずは、着替えてください」

「わかったわ」

「もしも、兵士が入ってきても、平然と。普段と変わらずやり過ごしてください。おそらく見逃してくれるはずです」

「わかった」

 シーラは、急いで着替えた。

 一番動きやすい服を選び、髪の毛は一つにまとめた。

「次は、どうしましょう?」

「廊下に人がいるかどうか、確認してください。それから、窓も」

 シーラは、そっと扉を開けた。

 廊下の一番奥の部屋を開けて、中を確認しているらしい兵士の姿が、何人か確認できた。おそらく、このままだとシーラの部屋にくるのも、時間の問題だ。

 窓の近くには、まだ人の気配がない。

「そうですか。では窓から逃げましょう。一刻も早く」

 ルナは、ベッドの下から這い出すと、窓からそっと様子を探った。安全と判断したのだろう、緊張した顔が、かすかに緩んだ。

「まずは、私が行きますわ。もしも、兵士がきたら、うまくやり過ごしてくださいね」

「わかったわ、ルナ」

 シーラは大きくうなずいた。



 部屋からの脱出は、簡単にできた。

 ルナが身軽だったことと、シーラもおてんばだったことが幸いしたのだ。

 まだ朝露で濡れている芝生の上を、ルナとシーラは手に手をとって、走っていった。

 だが、子供のシーラの足では、時々ルナに追いつけず、転ぶことも多かった。

「シーラ様、がんばって! 今頃、部屋を見られていますから、すぐに追手が来ます!」

「逃げる……って、どこへ?」

 シーラは、息も絶え絶えになりながら、もうろうとして聞いた。

「とにかく、お屋敷を出て。どこかで、馬を手に入れて……。まずは、デルフューン家の牧場に」

 シーラは、すこしだけ元気が出た。

 帰りたかった牧場に帰れると思えば、気力もわいてくる。どうにか逃げ切って、牧場に戻り、デルフューン家の両親の元へと行って……すべてはそれから考えればいい。

(デューンは……無事なのよね? 大丈夫よね?)

 不安を振り切り、逃げることだけを、シーラは考えようとした。

 走って走って、やっと、裏門の前までやってきたのだが……。

「待って! 兵がいる!」

 ルナが小さくささやいた。二人は慌てて身を隠した。

 武装した兵士が、厳重に門を見張っていた。

「無理だわ。突破できない」

 ルナが悔しそうにつぶやいた。

 その姿が、シーラには意外だった。普段のおっとりした彼女からは、想像がつかない。

「こっちよ! こういう時は、正面のほうがいい」

 ルナは、やや乱暴にシーラを引っ張った。


 正面の手前、やや崩れかけた壁がある。

「ここからなら、出られる」

 ルナは目測ではかった。どう考えても、かなりの高さだ。

「無理よ、私、上れない」

 突然、ルナが何かを投げた。

 細い綱だった。壁についている侵入よけの杭に引っかかり、外れなくなった。

 なぜ、ルナが綱を? という疑問を、シーラは抱かなかった。

「まずは、私が行くわ」

 ルナは綱を伝わって、するすると壁を上った。

 この時も、なぜ、先にルナが? とは、思わなかった。

 シーラは、ルナに続いて壁を登った。かなり苦労したけれど、やっと上り終わった。

 が、ルナは、壁向こうに降りようとはしなかった。

 もう既に、兵士たちがそこにいたのだった。

「畜生! 罠か!」

 ルナらしくない言葉が、彼女の口から漏れた。

「ルナ、向こうからも人が……」

 高い壁の上からは、ぞろぞろと集まる兵士たちがよく見えた。

 もう、逃げられない。シーラは、覚悟を決めた。

 だが、そのとたん、信じられないことが起こった。

「離れろ! この娘の命がおしいなら!」

 急に強く抱きしめられて、息がつまりそうだった。 

 冷たい感触が、頬にあたった。

「ルナ?」

 シーラは、信じられないものを見た。

 自分の頬に短剣を押し当てているルナの姿だった。

 動きたくても動けない。

 壁の上という狭い場所で、ルナは見事なまでにシーラを押さえ込んでいた。

 これは、ただの召使いができる技ではない。

 この期に及んで、シーラは、敵と味方を間違えていたことに、初めて気がついた。

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