片足の貴婦人
――がたん!
と、最後に大きく馬車が揺れた。
どうやら、目的地についたらしい。
デューンが立ち上がり、馬車の扉を開ける気配がした。少し気持ちいい風が、馬車の中を通り抜けたのだが……。
シーラは、膝を抱えてうつむいたままだった。
「シーラ?」
デューンの声が聞こえた。
それでも、シーラは頭を上げなかった。いや、上げられなかったというべきか。
腕に手がかかる。その手を払うだけの気力はあった。
「い、いや! さわら……な」
口を開いたとたん、あがってくるものがあった。
シーラは、酸っぱいものを必死に飲み込んだ。なぜか、涙が出て来てしまった。
「デューン様? いったい何事が?」
御者の声がする。
「いや、何でもない」
デューンの返事。
(な、何でもなくないわ……!)
思わず突っ込んだが、声に出したら、大変なことになってしまう。
「どうやら我が婚約者は、馬車酔いしたらしい」
(これって、馬車酔い? 気持ち悪くて死にそうだわ!)
「申し訳ありません。私が急がせたばかりに……」
「いや、ずっとうつむかせてしまったから。私の責任だ」
(なんて嫌みなの! 別に私、あなたに何かさせられた覚えはないわ!)
少し気分が悪いとは思っていた。
だが、興奮したせいだと思っていた。
顔を上げて、デューンの顔を見たくはなかったし、もう話もしたくなかった。
その結果。
馬車が止まった時、一気に具合が悪くなったのだ。
すっと影が落ち、その後、体が持ち上がった。
「嫌! 気持ち……悪」
「すぐに楽になるから」
手をとることもなく乗り込んだ馬車を、抱きかかえられて降りるはめになるとは。
青空が潤んで見えた。芝生の香りがした。
まるで牧場の木陰で、居眠りしていた日々のよう――でも、気分は最悪だった。
胸元と腰帯が緩められたが、少しも楽にならない。
「……苦しいわ。助けて……」
……助けて。お母様。
シーラは、母に助けを求めた。
だが、母の面影は、ただ悲しそうに首をふるだけだった。
シーラ。
もう私には、あなたにしてあげられることはない。
――ひどいわ。お母様!
今までだって、私には何もしてくれなかったじゃない!
いつも、いつも、いつも……シュリンばかりだったじゃない!
次に、父の顔が頭に浮かんだ。
だが、サザムは厳しい顔をして、シーラを見つめていた。
いいかい、シーラ。
モアラ家についても、礼儀というものを忘れてはいけないよ。
王族は、それを第一にするからね。
モアラ家の当主は、おまえも会ったことがあるね。ソリトリュート様だ。奥方は、デイオリア様。ソリトデューン様は、ただ一人のお子だ。
くれぐれも、礼儀は……。
シーラはぞっとした。
この死にそうな状態で、あのソリトリュートに挨拶をしなければならないと思うと、ますます死にそうになった。
……お願い。
誰か、私を助けて。
――コツ・コツ・コツ……。
音が響いた。
さわやかな香りがする。
シーラは、そっと目を開けた。
アーチ型の天井が見える。
横に目を移すと、透かし網になった窓。そこから、日差しが入り込んでいる。
背の高い女性が、逆光を浴びていた。
「どう? 気分は?」
もう死にそうではなかった。
だるくて、少し気持ちいいくらいだった。
「あの……あなたは?」
豊かな黒髪。ウーレンの王族らしい赤い瞳。きりりとした顔の美女だった。だが、微笑みは優しかった。
「私は、デイオリア・モアラ。ソリトデューンの母です」
――相手に名前を聞くときは、先に自らが名乗るのが礼儀だ。
「え? あ? きゃあああ!」
シーラは慌てて飛び起きた。
あの夜の、デューンの言葉を思いだしてしまったのだ。
礼儀を欠くな! と、父に、あれほど口を酸っぱくして言われていたのに。
「も、申しわけありませんっ! 私は!」
シーラの焦りとは対称的に、デューンの母は微笑みのままだった。
再びベッドに横たわるよう、そっと肩を押された。
「シーラ。私たちは、もう家族も同然。堅苦しいことは、なしです」
「はぁ……。でも」
なしと言われても、はい、そうですか……とは言えない。父が知ったら、卒倒しそうだ。
「へんねぇ? リュートはあなたのことを、生意気で身のほど知らずな、仕込みがいのあるお嬢さんだと言っていたけれど」
デューンの母は、顎に手を当て、斜め横を見上げた。
「そんなことありません! それは、あの方が無礼だったから……」
言ってしまってから、シーラは目を白黒させた。本当のことだが、いきなり夫の悪口というのは、まずかった。
だが、デイオリア・モアラは、それを聞いて、くすくす笑った。
「そうそう、あの人は、時々とても無礼なのよ。でも、安心しなさい。デューンはいつも、紳士だから」
そういうと、デイオリアは歩き出した。
コツ・コツ……と、また音が響く。
美しい黒髪が、左右に大きく揺れる。
――何か、おかしいわ。
「さっぱりした飲み物があるわ。一緒にいかが?」
「は……い」
逆光の中、グラスにミント水が注がれた。
そして、テーブルに乗ったまま、ベッドの前まで運ばれた。
コツコツという足音と、キュルキュルという車輪の音が響いた。
ついつい、気になってしまう。
それに気がついたのか、デイオリアはさらりと言った。
「私は片足なのです。左は、作り物の足」
――足がない?
じろじろ見てはいけない。
だが、残念ながら、シーラには好奇心のほうが強かった。
なぜ、足がないのだろう? とか、困らないのだろうか? とか、疑問符が頭の中を飛び回っていた。
「昔、戦争があったわ」
デイオリアは言った。
「今は、こうして平和だけれど、戦いの日々のほうが多かった。足を失うだけならば、まだいいほう。命を失った人は数知れずよ」
デイオリアは、ちらりと壁に目をやった。
そこには額があり、中にたくさんの勲章が飾ってあった。
「少女時代のものよ。ウーレンの武芸大会のね。私は少年少女の弓の部で、いつも優勝していたのよ。あなたは、弓を引ける?」
「え? ええ、子供用のおもちゃでしたら」
デイオリアはくすり……と笑った。
「片足で戦場には行けないけれど、まだまだ大会で勝てるだけの腕は、衰えていないつもりよ。今度、勝負しましょうね」
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