道化

「ふぅ......」


あたり一面を湯気が支配し、視界に映るは真っ白な世界。僕は今、浴室にて風呂に浸かっている。


 風呂というものに入るのは、記憶を失った今となっては初めての事だが、存外……いやかなり気持ちがいい。暖かなお湯が体を包み、疲れた体をゆっくりと癒してくれる。こんな素晴らしい代物を考えた人はきっと天才だ。


 それにしたって一体誰が風呂なんてものを作ったのだろうか。その疑問に答えてくれるものは今、この場には誰一人としていない。


「それに今考えるべきはあの五人の事……か」


 鏡に映る自分の姿を見た時、僕は思った感想としては凄くの顔立ちをしているということだ。


母親や姉があれほど美人なのだから僕自身、顔立ちは整っているものだと思っていた。


でも実際にはそのような事は無かった。むしろ本当に親子として疑わしいレベルで、きっと初めて僕たちの事を見る人は、僕たちが親子や姉弟だとは思いもしないだろう。


 そんな僕に対して、あの五人は純粋なる好意を抱いてくれている。


 僕はそれが堪らなく怖い。彼女たちが欲しているのはの僕ではなく、の僕だと思ってしまうから。


 水面に映る僕の顔は土器色で、端から見ても酷い顔色をしている。ここにきて僕は自身の記憶を失う怖さと物を嫌というほど痛感している。


 僕には他の人間誰しもが持っているアイデンティティ……いわゆるというものが殆ど存在していない。今の僕を構成しているのは、記憶を失う前の自分の残滓の様なもので、そんなもの僕ではない。


 今の自分とはどういった人間なのかも、何を考えるべきなのかも、何をすべきなのかも知らないし、わからない。


 僕は知らない。


 無知は人に恐怖を与えるとは聞いていたが、いざ体験してみるとこれほど人に恐怖を与えるものはない。


どうして自分は今まで平気だったのか、それが今の今になって不思議でならない。


あるいは気づかないふりをしていたのかもしれない。


 五人が、家族が、皆がいるということに仮初かりそめの安心感を得て、この事について考えないようにしていたのかもしれない。


 その方が楽だから。何も考えないで、そのまま生きていくのが一番楽だからと現実から逃げていたのかもしれない。いや、実際逃げていたのだろう。


「寒い」


 お風呂のお湯は暖かく、僕の身体は紛れもなく暑い。でも心は冷たく、まるで温まっていかない。外側は熱く、内側は何も変わらない。むしろどんどん冷えていっている。


 皆僕の雰囲気が前の自分とほぼ瓜二つという。でもそれは皆が前の僕を求めているから。今の僕がこうして生活を送れているのも前の僕のおかげで、あの五人がいるのもすべて前の僕のおかげ。


 僕は何もしていない。前の僕が持っていたものをそのままもらい、受け取り、施しを受けただけ。僕は自身で何も生みだしていない。何もつくれてはいない。


 道化……それが今の僕にお似合いの言葉だろう。皆が望む事は何かを考え、前の自分に似たような自分を演じているだけ。それが僕。


 僕自身そのつもりはないし、僕は僕だ……そう思いたいし、思っていたい。でもあの五人を見ていると僕は、自分という存在が不要なのではないかと思ってしまう。


 だって皆が知っている僕は、今の僕ではないのだから。みんなが好きな僕もまた今の僕ではない。


 皆が皆過去の僕の残滓を僕に求めている。それを僕は嫌という程感じてしまうのだ。


 それも仕方がない事なのかもしれない。だって今の僕は偽物で、道化なのだから。


僕はの篠宮章ではない。彼の身体をもらい受けだだけので、記憶が戻れば消えていなくなるようなそんな弱い存在。


 ちっぽけで、狭小で、浅ましく、愚かで、醜く、儚い。道化なんてそんなものだ。そして僕はそんな自分でいることを皆から強いられている。


 みんなは優しいから口ではそんな事は言わないけど、僕にはよくわかる。


 極めつけは秋葉のあの言葉……『早く記憶を取り戻せ』だ。


 その言葉は紛れもない今の僕を否定する言葉で、前の自分を強く望んでいる言葉に他ならない。そしてそう望んでいるのは秋葉だけでなく、もだ。


 カナ自身巧妙に隠したつもりなのだろうが、あの時カナの表情が一瞬……本の一瞬だけ氷づいた。彼女は頭がいい。だからこそその様な事を言うのは、今の僕に否定繋がると理解していたのだろう。本当は彼女自身が一番言いたい言葉だからこそ、カナの表情はそうなった。


 それに杏もだ。彼女の性格上本来ならば一番早く僕のもとに来なければおかしい。それなのに彼女が来たのは一番最後だ。何か用事があって遅くなったというケースも当然考えられる。その事について詳しく聞いていない今はわからないが、仮に用事で遅くなったとしたらそれこそ杏が今の僕を求めていない徹底的な証拠に他ならないだろう。


 だって彼女の愛は病的にまで重いのだから。そんな彼女が用事ごときで、僕の元へ訪れるのが遅れるわけがない。


 明乃さんだって、香苗さんだってそうだ。二人は僕の事を話す時、時々悲しそうに顔を伏せる。それは今の僕を望んでいない事の証拠に他ならず、一体僕の心をどれ程傷つけているのか二人はわかっていない。知りもしようともしないし、知ってくれようともしてくれない。


自分の事を理解できるのは、自分自身だけ。でもその自身さえ僕にはわからない。誰も僕のことを理解してくれない。


「自分って本当に嫌な奴だなぁ……」


 他人を、まして自分に好意を持っている人物を疑う……それが一体どれほど浅ましい行為であることか。全く道化には本当にお似合いの感情だ。


 そんな道化の僕で、心が寒さでしてしまっている僕だからこそ誰も信じることができない。


だって皆が皆なんだから。


 杏も唯もカナも葵も秋葉も皆本心を語ってくれない。明乃さんも香苗さんも。皆、皆、皆僕に嘘をついて、自分自身の事しか考えていない。


 僕は今の自分が求められていないのはわかっている。それならそうとはっきり言って欲しかった。


 今のお前はいらない。前の僕を返せとそう素直に口にして欲しかった。そうじゃないと僕は一体どうすればいいのかも分からない。何が本物で、何が偽物なのかも何もわからない。


 そもそも本物とはどういったもので、偽物とはどういったものかさえも分からなくなってきた。


 


今の僕の心はそれに捕らわれ、踊らされている。これを抜け出すには自分で、問の答えを求めねばならない。一体誰が嘘つきで、誰が正直者なのかを。誰を信用すべきで、誰を信用してはいけないのかを。


 そうやって僕はやっと前に進める。逆にそうしない限り僕は一生前に進むことができず、一生皆にとって都合のいい存在を演じ続けねばならない道化のまま。


 そんな一生僕はまっぴらごめんだ。だってそれはも同然だから。


 僕は一体何の為に眼を覚まし、生まれ、今を生きているのか今はまだわからない。でもわからないならわからないなりに足掻いて見せようではないか。こちらにも意地がある。なんとしてでも彼女たちの嘘を見抜いて見せようではないか。


 そうして僕は初めて自己という物を確立できる。自分は自分であると胸を張って言えるようになる。


「お前らの心全部......暴いてやる。だから覚悟していろよ」


それは自身を鼓舞するものか、あるいは覚悟の表れか、自分自身すら分かっていない章が理解する事は出来ない事柄であった。

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