登校

「本当に大丈夫? まだ休んでいても……」

「大丈夫ですよ。それに僕自身早く今の生活に馴染みたいですから」


 この言葉は嘘ではない。嘘ではないが僕の心を精確に反映しているわけではない。


「でも……」

「本当に大丈夫ですって。それに僕はただでさえ学校の勉強に遅れているんですから早く取り戻したいので」

「……わかったわ。でももし体調が悪くなったりしたらすぐに保険室に行くのよ?」

「わかりました。それじゃあ行ってきます」


 口の中が甘くて、苦い。


「お待たせ」

「……うん」


 外に出るとそこにはいつもの何を考えているかよくわからない表情を浮かべた葵がいた。


今この場には葵と僕以外いない。それは僕が望んだことで、他の四人には先に学校に行ってもらった。


「……眠い」

「あはは。それは昨日あれだけ騒げばそうなるよね」

「……あれは仕方がない。こっちにも譲れないものはある」

「僕の隣で誰が寝るかの事でそんなに揉めないで欲しいのだけれど……」


 五人が寝る場所は何故か僕の部屋だった。一応詰めれば入れないことはないにしろ、キツキツであることには変わらず、その結果一人が僕と同じ布団で寝ることになったのだ。


 その様な状況になった時点で僕はリビングで寝ると言ったのだが、それだけは絶対にありえない事らしい。


「……章は自分の事過少評価しすぎ。もっと自信を持つべき」

「自信を持つ……ね」


 葵は僕の事を励ますつもりでそう言ってくれのだろうが、僕としてはそれが今最も欲していることで、最も達成することが困難な物だ。


「……章?」

「なんでもない」

「……そう」

「そう言いながらどうしてくっつくのかな?」


 葵は僕の腕と自身の腕を絡ませ、ぴったりと寄り添っている。


一体何の意図があって、いきなりその様な事をしてきたのかはわからない。でも葵が近くにいると僕の心は、自然と安らぐ。


「……章が落ち込んでいる様に見えたから?」

「そっか」


 葵は僕の事を……正確には僕の内面をよく見てくれている。僕の嫌だと思う事、困ることは絶対にしない。そんな彼女だからこそ僕は今、一緒にいる。


 他の四人は……嫌いではない。でも四人は自身の欲望にとても正直だから、自身の気持ちを僕に押し付けてくる。


今の僕にはそれが堪らなく重く、弱った僕の心はこのまま四人と一緒にいると潰されてしまいそうになる。だから僕は四人と一旦距離を取りたかったのだ。


 そんな中葵だけはそばにいても僕の心が潰されそうになることはなかった。葵が僕のの彼女だからだろうか。


 それを決めつけるのには、あまりにも早計であろう。でもこれだけはわかる。今、僕の心をとらえているのは紛れもなく彼女だ。


 ただし彼女の事が好きだからという理由などで、捕らわれているわけではない。そもそも今の僕に他人を好きという気持ちがあるのかどうかすら疑わしい。


 だとしたらこの感覚は一体何なのだろう。とてもじゃないが言葉に表せそうにない。


「……猫」


 屋根に灰色の猫と黒猫が一匹ずついた。二人は番なのかどうかは知らないが、灰色の猫が黒猫に甘えている。


「……可愛い」


 葵は猫が好きなのか二匹の猫の事をジッと見つめている。一見すると感情のない瞳で、猫たちの事を見つめている様に見えるが、頬の紅潮に、いつもは糸の様に閉じられている瞳が開いている事から彼女が今、とても興奮しているのがよく分かる。


「葵は猫が好きなの?」

「……うん。あの自由気ままに生きるところがとても可愛い」

「そうなんだ。まあ葵ってどこか猫っぽいしね」

「……そう?」

「葵のマイペースな所なんか凄く似ていると思うけどな」

「……私ってマイペースなの?」

「自覚なしなの……」

「……自分の事あまり考えたことないから」

「それはまた贅沢なことで……」

「???」


 僕なんて昨日の夜からずっと考えっぱなしだ。そのせいで少し寝不足で、頭も少しだけ痛い。眠気覚ましに朝コーヒーを飲みはしたものの、まるで利かなかった。


「……章は自分を動物で表すならなんになると思う?」

「僕を動物に? そうだな……」


 いざそう言われると悩む。まず第一に猫は絶対にありえないだろう。それと同じくらい犬もあり得ない。


だとしたら一体何になる? ライオン……はありえないし、キリン? それもないだろう。


そもそもキリンってどういう動物なのかよくわからないし……そもそも自己がない僕にお似合いの動物なんて早々……いや。一匹だけいる。


「コウモリかな」

「……コウモリ?」

「うん。コウモリ」


 イソップ童話に出てくる『卑怯なコウモリ』という話では、コウモリは危機的状況に陥った時、嘘をつき、危機から逃れている。そんな浅ましく、醜いところなんて僕にそっくりで、何者にも慣れないという所がよく似ている。


「……章が何を思ってそう言ったのかはわからないけど私は違うと思う。これは断言できる」


 葵は僕の答えが不満だったのか少し怒っているような、悲しそうな様子だ。一体彼女の中で何が不満だったのか僕にはよくわからない。わからないからこそ知りたい。


「違うならなんだと思う?」

「……オオカミ」

「オオカミ……」

「……章は一匹オオカミ。誰とも群れず、群れようともしない。一人で抱えて、一人でなんでも解決しようとする」

「……」


 それは今の僕を指しているのか、はたまた前の僕を指しているのか、はたまた両方を指しているのか僕にはわからない。でも葵の声音、瞳、その両方ともに真剣で、嘘をついているようには見えない。


「……納得いかない?」

「まあ……うん」

「……ならいい。むしろ納得して欲しくない」

「なんだそれ……」


 自分で言っておいて納得して欲しくない。ここにきて本当に葵が何を考えているか全くわからなくなってきた。


「……章には私がいる。それだけは覚えておいて欲しい」

「あ、うん」


 間髪入れずに返事をしてしまったが一体この問答に何の意味があるのか……


「……章にとって他の子達はどう見える?」

「他って……あの四人の事?」

「……うん。動物に例えるのも可」

「そうだな……杏は犬で、唯はペンギン。カナは狐で、秋葉はライオンとかだな」

「……章は人の事はよく見ている」

「それは褒めているの?」

「……褒めているともいえるし、褒めていないともいえる」

「葵は中々難しい事言うな」

「……章の心程ではない」

「今何か言った?」

「……何でもない」

「そうか」


 これ以上この場に留まっていると確実に授業に遅刻してしまう。復帰早々遅刻はいくら何でも印象が悪い。


「葵。そろそろ行こうか」

「……わかった」


 葵の僕に抱き着く力がより強くなる。葵のあたたかな体温に、柔らかな感触。ほのかに薫る甘い香りは、僕の脳をゆっくりと溶かしていき、不安という感情を取り去っていく。


 僕はもしかしたら無意識のうちに緊張していたのかもしれない。僕は学校という知識はあるが、そこに行った事は無い。


今の季節は6月。人間関係も既に出来上がて言っている。そんな中記憶を失った僕がいきなり入って、上手くいくのだろうか。そんな不安をこの身は敏感に感じ取っていたのかもしれない。


 葵はそれが分かっていて、リラックスさせてくれる為に僕に寄り添ってくれているのかもしれないし、そうであると信じたい自分がいる。


「ありがとう」

「……???」


 葵は他の四人とは何か違う。そんな気がする。彼女の胸の内に潜む言葉を聞いていない現状では判断しかねるが、彼女が他の四人よりは信用に足る人物であることはわかった。


それだけでも今日の収穫は充分で、僕の心は一歩成長できたような気がする。

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