レムの掌から伝わる冷たい温もりだけが、この静寂世界における唯一の真実だ。
「また来たのね」
部屋の奥から声がした。
その部屋はウラシマの部屋と同じくらいの大きさだった。木でできているところもウラシマの部屋と同じだったけど、それ以外は全部違っていた。ベッドもないし、時計も、本棚も、ランドセルやジャンバーをかけておくでっぱりも、絨毯もない。それに部屋は丸い形をしていた。
部屋の一番奥には明るい色の木でできた丸くて低い小さなテーブルがあって、テーブルを挟んだ向こう側に、女の子がこちらに顔を向けるかたちで座っている。女の子はテーブルに広げた画用紙を左手で抑えて、右手には絵の具の筆を握っている。
「絵を描いてたの」
女の子は画用紙に視線を残したまま言った。その声は透き通っていて、どこかで聞いたことのある旋律を帯びている。
ウラシマはこの部屋のことも、女の子のことも知っていた。知っていたけれど、なぜだか部屋に来るまで思い出せなかったのだ。
「なんの絵を描いてるの?」
「ひみつ」
女の子はいたずらっぽく笑ってようやくウラシマの方を見た。胸を針で突かれたような感じがした。ちらりと絵が見えたけど、あまり上手ではなかった
「ふうん。僕は今日学校だったよ。帰るとき、近道をしようとしたところでへんなかんじになった。へんなかんじがするとここに来れるんだ」
静かに言ったつもりが、声色は弾んでいた。
「私もきみが来てくれないかなって思ってたよ」
女の子は筆を置いて立ち上がった。背はウラシマより高かった。長くてまっすぐな髪の毛がふわりと揺れる。
ウラシマは女の子の姿を目に焼き付けようとしたが、それはできなかった。女の子の顔や体は、水たまりに映っているみたいにぼんやりとしている。それに、一度視線を外すと全く思い出せなくなってしまう不思議な姿なのだ。
ウラシマはテーブルに近づくと「名前は?」と聞いた。
「え?」
「名前を聞きたい」
「ああ、名前かあ」
「いつも聞いているはずだけど、忘れちゃうんだ」
「なんで忘れちゃうの?」
「分からない。いつも忘れてるんだ。君と話したことも、遊んだこともこの部屋のことも忘れちゃう」
「ふうん」
「だからまたきっと忘れちゃうんだけど、もう一度教えてほしいんだ」
「ええとね、レム」
「レム?」
「そう、レム」女の子はもう一度、さっきと同じ笑顔で言った。
「名字は?」
「みょうじ?」
「名前と名字があるでしょ」
「ああ、名字……」
「うん。教えて」
「うーん。ルルル」
「ルルル?」
「うん、それが名字だよ」
「ルルル、レムっていうの?」
「そうだよ」
「へんな名前」
ウラシマが思わず吹き出して、つられるようにレムも笑いだした。
「それじゃあ、行こうか」ルルル・レムは嬉しそうに言う。
「どこに?」そういえば、この部屋に来た時はいつも、レムがどこかへ連れて行ってくれるんだ。だけどそれがどこかウラシマは思い出せなかった。
レムは瞳の中にウラシマが写るくらいまで近づくと、手を握って扉の方へ引っ張った。レムの掌は雪のように柔らかくて、つめたくて。
レムはウラシマの手を握ったまま、反対の手で扉を開けた。ウラシマが入って来たはずの扉。しかし扉の向こうはあの小道じゃなかった。
扉の外側には何もなかった。正面にはどこまでも真っ暗な空間が続き、上を見ても星や月はない。下を見ると足場はなく、代わりに底の見えない静寂が漂っている。漆黒。懐かしい闇。
ウラシマは今見ている光景より黒いものを見たことがないと思った。
「真っ暗だ」それ以外に言葉が見つからない。
「そりゃあそうだよ。ずうっと夜なんだもん」
レムの声は高揚している。
不思議と怖くはなかった。レムの顔を見ると、レムも楽しそうに笑っていた。
行こう!
ウラシマの手を握るレムの手に少し力が入った。次の瞬間レムとウラシマは、飛んでいた。より正確にいうならば、落ちていた。
暗黒が押し寄せては去ってゆく。闇に闇に闇に。体がねじ込まれてゆく。どこか一点に向かって垂直に。どこまでも落ちる。落ちる。落ちる!
「気持ちいいでしょう」
どこかでレムの声がする。視界は何も映さないが、レムは近くにいるのだ。
「分からない! けど、すごい……!」
怖いと言ってしまえばレムに幻滅される気がして、ウラシマは強がった。
レムの掌から伝わる冷たい温もりだけが、この静寂世界における唯一の真実だ。ウラシマはレムの手をぎゅっと握りしめて、黒一色の空間でひたすら、顛末を待つ。
「そろそろソラクダが来るからね」
レムがそう言うとすぐに、垂直落下は止まった。体に柔らかな衝撃があって、弾んだあと、何かに腰掛けるような格好で着地した。
助かった、と心でつぶやく。ウラシマは待ち望んだ安定感をかみしめた。
「怖かったんでしょ」
右を向くと、闇の中にぼんやりと、レムの横顔があった。
「怖くない、怖くない」ウラシマは精一杯強がったが、口調には安堵や焦りが含まれていた。
レムは可笑しそうに「いつもとおんなじ反応だ」と言った。
「もう大丈夫だよ、ソラクダが連れて行ってくれるから」
感覚が戻るにつれて、ウラシマは自分の体が前方へ運ばれていることに気づいた。同時に、尻には柔らかい感触があり、左手を置いている場所には体毛があり、ここが生き物の背中であることも分かった。
——動物だ。動物に乗っているんだ。
ウラシマとレムは、空飛ぶ生き物の背にいて、横向きに並んで座っていたのだ。
「何これ? 飛んでる! 飛んでる!」
ウラシマはあっけなく恐怖を忘れた。体の真ん中に炎が走る。自分が今、空飛ぶ生き物に乗っているという事実に打ち震える。すっげえ!
「ソラクダだよ、空飛ぶラクダ」
「ラクダ? 」
ウラシマは身を乗り出して生き物の姿を見ようとした。右下にはレムの足がぶらぶら揺れていて、さらにその下で、大きな翼が唸るように波をつくっている。しならせて一閃。しならせて一閃。翼の動きが障害となって頭部まではよく見えなかったが、確かにそれは飛翔中の生物だった。
「ラクダが飛んでるの?」ウラシマはもう一度嬌声を上げる。
「本当に忘れちゃうんだね。きみはいつもソラクダの背中で、今みたいにはしゃぐんだよ」
「だって、すごい! すごいじゃん!」
空飛ぶ生き物の背中にいるんだ! ウラシマは闇夜の端っこにもう一度、すごい! という叫びを轟かした。
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