眩しさは懐かしさだった。
気づくとそこは仙台市◯区。朧ヶ丘小学校。
ウラシマは自分の息遣いが強くなるのを感じた。チャイムが鳴っている。たぶん、五年生や六年生の授業が始まるんだろう。このチャイムが鳴り終わるまでにどこまで行けるかな。ウラシマはそんなことを考えながら走っていた。
駐車場を勢いよく駆け抜けると、右側に校舎が、左には体育館が見える。足裏の感触は、地面がアスファルトから砂利道に変わったことを告げていた。
しばらく走ると、校舎と体育館の入り口をつなぐ通路に突き当たる。通路にはスノコが置かれていて、その上を何人かの生徒が体育館に向かって通過中だった。ウラシマは彼らにぶつからない動線を選んでスノコを飛び越える。
ジャンプの間は、少しだけ時間の進みが遅くなる。とくに走ってから飛ぶと、すごく遅く感じる。そのふわっとした感じがなんだか気持ちよくて、ウラシマはよくこのダッシュジャンプをして「遅い感じ」を楽しんだ。
今のジャンプはポイント高いぞ。ウラシマはアクションゲームのキャラクターになりきっていた。
通路を超えると、次は飛び石ゾーン。踏み外したら真っ逆さま。という設定。とん、とん、とん。ひとつ飛ばしで中ジャンプ。少しバランスが崩れたけれどギリギリセーフ。そのときちょうどチャイムが鳴り止んだ。
中庭を抜けて校舎裏へ着いたところで、ウラシマは走るのをやめた。呼吸が苦しくて、肩が激しく上下する。だけど止まったのは息切れが理由ではなく、要注意ポイントに着いたからだ。
校舎裏にはちょっとしたスペースがあって、そこにはうさぎ小屋が置かれていた。小屋には白いうさぎと黒っぽいうさぎが二匹ずついて、ときどき生き物委員会の生徒や用務員のムトウさんが世話をしにやって来る。
うさぎ小屋の脇を通り過ぎると背の低い木に挟まれた小道があり、そこを通れば遊歩道への近道になる。
しかし、もし「裏世界」から遊歩道に出るところを生き物委員会の生徒たちやムトウさんに見られたら、きっと告げ口されて朝礼で問題にされてしまうだろう。
ウラシマはムトウさんと顔見知りなので、いつかのように近道したことが先生へ伝わって、親にも電話がいくかもしれない。だからうさぎ小屋の脇を通る時は細心の注意が必要なのだ。
だけど通っちゃだめならどうして脇道があって、なぜ遊歩道に続いているんだろう。ウラシマは不思議に思った。
うさぎ小屋の周りも、遊歩道への小道も、木漏れ日が少しだけ差し込むだけでなんだか薄暗い。人がいないと寂しげな場所だけど、今は誰もいない方がありがたいんだ。乱れる呼吸に気をつけながら、ウラシマは周囲に人の気配がないか探った。おんみつ行動おんみつ行動。と心の中で繰り返す。
どうやら人の気配はなかった。あとは遊歩道に出てしまえばミッションクリアだ。
生徒たちが住む住宅街へと続く遊歩道。学校の正式ルールはこうだ。下校のときは正門から出て、遊歩道まで歩きましょう。正門から遊歩道までの公道は車が通ることがあるので、児童用ガードレールの内側を通りましょう。
だけどそれは家までの最短ルートではなかった。ウラシマや何人かの生徒は「裏世界」を通ればショートカットできることを知っていた。
裏世界とは、今ウラシマが通ってきたコースのことだ。正門は使わず、校舎を迂回した先にある先生たちの駐車場を通り、校舎と体育館の間を突っ切り、校舎裏のうさぎ小屋を横切って側道から遊歩道の本道へ抜ける。これが裏世界経由のショートカット。
誰が名付けたのか分からないが、校舎裏だから裏世界なのかな。それともほんとに裏の世界?
一人でうさぎ小屋まで走ってきたのは早く帰ること以外にも理由があった。この道を通るときたまに起こる「へんなかんじ」を味わいたかったのだ。
小道から遊歩道へ出るまでのほんの数歩のあいだ、いつもこの数歩のあいだに「へんなかんじ」はやってくる。「へんなかんじ」を言葉にするのは難しいけれど、今起きていることがすべて「どこかで見たことがある」と感じる数秒間のことだ。
靴ごしに伝わる土の感触や、ひらひら飛んでる蝶の軌道、日差しの角度、知らない鳥の鳴き声、おかしな赤い色をした遊歩道の路面。
目に入ってくる全部が、前に見た光景と一緒で、目に入る順番までぴったりと一致する感じ。どこかで見たぞ、が怖いくらいに連続して、次に何が起きるのかも分かっている。この次に蝶が飛んでいるのを見るぞ、ほら蝶だ、やっぱり見たぞ、とそういう感じ。この感じはいつ終わるのかなと、もうひとりの自分が考える。
「へんなかんじ」に閉じ込められちゃうんじゃないか、とも思うけど、ふわふわして気持ちがいいから終わらないでほしいな、とも思う。
だけどそんな考えがよぎるのは「へんなかんじ」が終盤に差しかかっている証拠で、終わらないでほしいと思ったらすぐに、魔法がとけるようにあっけなく「へんなかんじ」は終わってしまう。
この感じはみんなにもあるのかな。気になったけれど友達に聞くのはなんだか恥ずかしい気がしたから兄ちゃんに話してみたことがある。兄ちゃんは「そんなの錯覚だよ」と言って相手にしてくれなかった。
ウラシマは「さっかく」ってなんだろうと思った。聞いたことはあるけど、よく分からないものだ。魔法みたいなやつかな。それとも見まちがいのこと?
でも「へんなかんじ」はあんなに気持ちいいんだから「さっかく」でもなんでもかまわないや。ウラシマはそれ以降、誰かに「へんなかんじ」の話をしようとは思わなくなった。
「へんなかんじ」はうさぎ小屋の脇を通ったからといって必ず起こるわけじゃなかった。
初めて起きたのは五年生のやつらから殴られたあと、ひとりでここを通ったときだ。
五年生は、ウラシマが別の日に叩いた同級生の兄ちゃんたちで、弟の仇を討つためだと言って、ウラシマをうさぎ小屋の影まで連れて来た。
五年生は三人組で、そのうちのひとりから、上履き入れにジュースの缶を入れた武器——もちろん缶ジュースの中身は入ったままだ——で殴られた。ごむ紐の部分を握って、ヌンチャクみたいに振り回して使う武器だった。
殴ったやつはその武器を「ポカリパンチ」と呼んでいたけど、それを言うならポカリヌンチャクだろう、とウラシマは思った。3発目で缶ジュースの角の部分が当たったときはとんでもなく痛かった。
「弟をいじめるなよ」と言って五年生たちは去っていった。
ウラシマは何も言い返さなかった。今度あいつらを見つけたら至近距離から顔面にドッチボールをぶつけてやろうと考えていた。ついでにあいつの弟から給食をもらおう、とも決めた。
殴られた後ウラシマは、たんこぶを抑えながらうさぎ小屋の脇道に来た。誰もいないことを確かめてから少しだけ泣いた。うさぎを見ると、白いのも黒いのもうずくまって寝ていた。なんだか羨ましかった。
うさぎから視線を足元に戻して、遊歩道までの小さな坂道を下ろうとしたとき、初めて「へんなかんじ」になった。ぜんぶ知ってる! なにこれ、へんなかんじ! ウラシマは感激した。すごく気持ちよくて、少し怖くて、とても懐かしかった。
坂を下り終わって遊歩道に出ると「へんなかんじ」は終わっていた。
ほんの一瞬の出来事なのに、とても長く感じた。夜に寝たらすぐ朝が来るのにも似ていた。ずっとそこに居たのに、どこか遠いところに出かけたような感覚もあった。
うさぎが何かしたんじゃないかと思って戻ってみたけれど、彼らは相変わらずうずくまって寝ているだけだった。
そのあとも何度か似たようなことがあった。「へんなかんじ」は決まってうさぎ小屋の脇から遊歩道へ抜ける小道にいるときに起こる。そして、誰かと一緒にいるときには起こらなかった。
だからウラシマはよく一人でここへ来た。「へんなかんじ」が訪れたらラッキーで、何も起きなければがっかり。
今日はどうだろう。ウラシマは弾む息遣いを整えながらうさぎ小屋の前を通る。うさぎは今日も寝ている。そういえば、ウラシマはここにいるうさぎが起きているところを見たことがない。
「へんなかんじ」は期待しすぎるとやってこない気がしたから、ウラシマはただ近道のためにここを通っているんだ、という素ぶりでゆっくりと小道に入った。濃い茶色をした、なだらかな坂に小石がいくつか埋まっている。
ウラシマはわざと石を踏んで坂を下ってゆく。十歩ほども歩けば遊歩道に出てしまうから、少しゆっくり進むようにした。三つめの石を踏んだとき、足裏に小さく響いた感触を知っていることに気がついた。もう一歩進むと、木々が隠していた白っぽい光が顔に当たった。
眩しさは懐かしさだった。
きっと蝶が飛んでいるはずだぞ。ウラシマが思うと同時に、視界の隅を水色の羽がひらひら舞った。いつか見たときと同じように、蝶は行くあてがないような軌道を描く。
「へんなかんじ」だ! ウラシマは嬉しくなった。
どこかで鳥が鳴いた。ウラシマは鳥が鳴くと分かっていた。分かったことにも驚かない。そして次に起きることも知っている気がした。たしか——。
小道と遊歩道の間には浅い溝がある。雨の日はここを流れる水が落ち葉の舟を運んでゆく。今日みたいな晴れの日は、溝の底に落ちた枯葉が雨の日に運ばれるのを待っているだけだ。ウラシマはその溝を跨いだ。
跨いだ先は遊歩道ではなく、知らない部屋だった。
空や木々や土はもう見当たらない。
両足が部屋の床につくのと同時に、ウラシマの背後で、かちゃりと扉の閉まる音がした。
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