を。

 目を開けるとそこは朧ヶ丘。仙台市○区朧ヶ丘のどこか。泥流の底。


 濁流。激流。水と呼ぶにはあまりにも暴虐なものの底で、ウラシマはすでに生を諦めていた。肉体的感覚の一切を無くし、肺には水が入り込んでいる。


 視覚と聴覚だけがかろうじて意識とのつながりを維持しているが、弱々しく頼りない。重々しい低音が絶え間なく耳を痛めつける。


 唯一、自身の命令が伝わる瞼とその中の視野は、ウラシマの上で巻き起こる地獄を捉えていた。


 黒い蠢きが幾重にも被さり、乱れ、合流と決裂を刹那の単位で繰り返している。鉄や木やプラスチックの瓦礫が眼前をいくつも横切っていく。ときどき、人間の衣服や、部位、人間そのものも流れていった。


 不調和に別の不調和がぶつかって、意味を持つあらゆるものを、無意味な塊に分解していくようだった。何もかもが渦に飲まれ、流れに敗北したのだ。かつて陸と呼ばれていたこの場所は、今や死の川だ。


 圧倒的に純粋な死を、ウラシマは成す術なく眺めている。か細い生から眺める死だった。死から眺める生でもあった。どのように抗おうと、ここは死という生き物の内臓であり、決して脱出不可能な牢獄なのであった。


 ウラシマは目を瞑り、祈るように諦めた。


 そしてもう一度瞼を開け、濁流の底から水面を見上げる。


 死の淵で覚悟を決めたからであろうか、ウラシマの視覚と意識は、凄まじく研ぎ澄まされていた。あまりにも鮮明に、流れゆく目の前のものたちを捉えることができる。


 濁流はすべてを押し流した。「止マレ」の標識を。ハイブリットカーの前輪を。さっきまで林だった木々を。プレハブ倉庫の屋根を。猫を。オーダーメイドスーツの切れ端を。「CLOSED」の看板を。明日の約束を。昨日の裏切りを。今日の待ち合わせを。船の残骸を。防水加工されたスマートフォンを。団欒を。豚肉を。カーテンを。砂利を。紐を。鏡を。靴を。誰かの思い出を。時計を。歯科医院の電子機器を。「じゃあまたね」を。灯油を。ベビーカーを。「ありがとう」を。自動販売機を。ローンを。妊娠検査薬を。「死ね」を。植木鉢を。事業計画書を。つながりを。道を。納税義務を。バーベキューコンロを。ふるさとを。生命保険証書を。ダイニングテーブルを。心の闇を。希望を。汚泥を。絵を。「他には何もいらない」ものを。ウラシマの息子が着るはずだったジャンバーを。息子が乗るはずの補助輪付き自転車を。息子と作った本棚を。息子と通った公園のベンチを。息子が何度も真似したアニメキャラクターの人形を。


 息子を。


 ウラシマを構成する情報の全てを。最後に流したはずの涙を。


 やがて光は消え、轟音は静寂に変わった。


 深い闇の向こうで声がする。


「生きるついでに死ぬ男よ。死ぬついでに生きた男よ。散りながら咲き、咲きながら散るときがきた」


 次に光が宿ったとき、ウラシマはまず咳き込んだ。むせたからだろうか、目には涙が溜まっていた。


 涙で滲む視界には、果てしなく白い世界が映し出されていた。見える景色の低さから、両手両膝を地につけていることに気づいた。草の先が頬に当たってくすぐったい。


 見上げると馬がいた。ウラシマは地に膝を付けたまま黒い馬を見て、背後に広がる白い世界のことを思い出した。


「嫌なものを見せてくれるじゃないか」敵意を込めてウラシマは言った。


「何を見た」馬は威風を崩さず答える。


「もっとも見たくないシーンさ」


 少し間を空けて馬は「それは大変だったな」と言った。


「濁流が全てを流した。俺はあの日に死んだのだ」曖昧な記憶を逡巡させながらウラシマは弱々しく呟いた。馬は黙って彼を見ている。


「あの日、俺は何もかもを失った。濁流に家族を殺され、そして俺自身も死んだ」


「それは妙だな」


「どうしてだ」


「貴様は確か、介護施設とやらで最期の時を過ごし、何年にも分割された死を味わったと言っていたが」


「……」


 馬のセリフを聞いて、確かに妙だ、とウラシマは思った。介護施設で過ごした数年間の記憶。タブレット端末を用いたレクリエーション、アキオさんの呪文、金目鯛やコウモリの幻覚、自室の絵画。認知がおかしくなっていたとはいえ、あれは確かな現実の記憶だ。体験として刻まれている。


 では。とウラシマは思う。


 今回体験した濁流のシーンはなんだったのだ。自分から全てを奪ったあの濁流もまた、確固たる体験だ。忘れたくても忘れることのできなかった悪夢だ。


 ウラシマはどちらの体験も決して幻ではなく、自身に起こった事実であるという確信を深めた。


 ウラシマは二つの出来事を時系列に整理して推論を立てた。おそらく自分は、最終的には介護施設で暮らしたのだろう。


 介護施設は当然、老人が入所するところであって、車椅子に乗せられていたことからも、年老いてから過ごしたことは明白だからある。


 ということは。ウラシマは思った。その前にあの地獄のような濁流を生き延びたことになる。


 助かったとは到底思えない状況であった。意識が途絶えゆく感覚も覚えている。だが、その後奇跡が起こり、一命をとりとめたのかもしれない。


 そのように結論づけることでしか、二つの点を線でつなぐことができなかった。


「おそらく命は助かったのだろう。だがどちらにしても、精神はあの日濁流の中で息絶えたんだ」ウラシマは今しがた結論づけた考察結果を口に出した。


 強い語調には、己の見立てを自分自身に信じ込ませるかのような弱さが含まれていた。


「ころころと解釈が変わって忙しそうだな」


 ウラシマと対照的に馬の語気は、愉快だとでも言いたげな響きを呈している。 


 ウラシマはゆっくりと立ち上がり、膝についた白い砂を払った。


 馬の顔は、ウラシマが立ち上がってもなお、見上げなければならない位置にあった。馬は、瞳に焔のような灯火を宿らせていた。それをじっと見据えてウラシマは言う。


「あの日、家族を、息子を失った時、俺は死んだ。その後命が助かったのだとしても、あのとき死んだのだ」


 ウラシマの姿は白い背景に溶け入りそうなほどに薄く頼りなかった。


「悪いが、慰めの言葉を吐く気分にはなれぬ」馬はあくまでも突き放すのだった。


「そんなもの期待しちゃいない。だが、どうにも腑に落ちないことばかりだ」


「どうせくだらないことだろうが、聞くだけ聞いてやろう」


「俺が濁流に飲まれ家族を失ったこと、そして介護施設で暮らしたことは間違いなく事実だ。だが、その二つの間を埋めるはずの記憶がすっかり抜け落ちている」


「それは残念だな」


「それどころか、他の記憶も皆無だ。俺はどのように生きてあの絶望に行き着いたのか、全く覚えていない。気づいたらこの訳の分からない真っ白い場所に居て、黒い変な馬と喋っていたんだよ」


「変な馬だと? 俺は黒いが変ではない。訂正しろ」


「乗せろ」


「なに?」


「早く背中に乗せろと言っているんだ」


「ほう。どういう風の吹き回しだ」


「お前に乗ると、空が裂ける。裂け目から生前の記憶が流れ込む。よく分からないが、そういう仕組みになっているのだろう?」


「生前……か。やはり貴様はくだらない」


「なんだと」


「まあいい。乗りたいのなら乗ればいい。俺たちは乗って乗られることでしか分かり合えないのだからな」


 風が頬を掠って後方へ流れてゆく。地を叩く蹄の音がずしんと体の芯に響く。過去二回と同じように、ウラシマは気づくと馬の背中で速度を感じていた。


「なあ、体験する年齢を選ぶことはできないのか? もう辛い思い出はたくさんだ」


「貴様は、何か盛大に勘違いしているようだな」


 ウラシマと馬は、痛いほどのスピードの中で会話を交わす。


「ボケちまった後のことや地獄みたいな光景じゃなくて、もっと爽やかなシーンを見たいんだよ」


「俺はタイムマシーンでもなければ、お前の思い出格納ボックスでもない」


「風がうるさくて聞こえない、なんと言ったんだ?」


 速度が頂点に達した時、地平線のやや上部に裂け目が現れた。裂け目はみるみる大きくなり、やがて全てになった。

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