「乗れ」

「騎馬に慣れていないようだな」


 振り返ると馬がいた。


 馬は山脈のように隆々と逞しく、堂々たる佇まいで草原を踏みしめ君臨していた。


「やっぱり俺の仮説は正しかった」


 ウラシマは起き上がりながら、嘆くように言った。


「仮説だと? ふん。貴様の仮説などに興味はない。貴様など正しくもなければ何でもない」


「ここはやはり、死後の世界じゃないか」ウラシマは力強く言い放った。


「だから言っているだろう。好きに定義づければいいと」馬は微塵もうろたえることなく答えた。


「俺は今、とても長い幻覚の中にいた。いや幻覚じゃない、あれは俺の人生だ」


 ウラシマは落下するまでのあれこれを思い出し、確信を深めながら続ける。「朦朧としたまま、俺はあの場所で暮らしていた。何年もだ」


「そうか」馬は憐れむように言う。


 ウラシマは記憶を手繰りながら、自らに言い聞かすように、ゆっくり話してゆく。


「俺は車椅子に乗っていた。あの建物は——老人介護施設だ。俺が死ぬまでの晩年を過ごした場所だ。ずっと永い間、意識に膜が張ったようだったが、それは老衰によって認知機能が低下していたからだ。意識の膜が消えた今なら明瞭に理解できるぞ」


 ウラシマは雄弁になっていた。


「俺はあそこで、何年にも分割された死を味わった。死は一気にやってこない。——ああそうか」


 何かが腑に落ちたような口調でウラシマは言った。


「楽しそうで何よりだ」馬は不気味に笑う。


「死は、命が止まった瞬間を表すものじゃないんだ。死は長期的なものだ。死そのものにも、物語のように始まりがあって終わりがある」


 馬は何も答えず、ウラシマが言葉を続けるのを待った。


 思索の海を逡巡していたウラシマはようやく言葉を見つける。


「お前は、死は人間が定義した概念にすぎないと言ったな」


「そうだったか」


「こうして自分の死を振り返ってみると、不思議とその言葉がしっくりくる」


「光栄だな」馬は言葉と裏腹の口調で言った。


「当人からすると、生死の境はあやふやだ。死というのは他者からの解釈でしか——」


「乗れ」


 ウラシマのセリフはあっけなく遮られて、気づくと抗う間も無く馬の背中にしがみついていた。


 馬の焦げ茶色をした鬣が風に引っ張られピンと逆立つ。馬は既に推進力の化身だ。


 次の刹那、馬とウラシマは矢になって空を貫いた。景色が溶けて轟音が止む。空の彼方に吸い込まれる感覚。スピードで風を孕ませた手応え。


 ウラシマは見た。空が縦に裂ける様を。裂け目から禍々しく、どす黒い液体の渦が流れ込むのを。恐ろしくて苦しくて、ウラシマはお母さん、と言う代わりに「むーちょ!」と叫んで目を閉じた。

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