腐溶炎君

 目を開けるとそこは朧ヶ丘。仙台市○区朧ヶ丘のどこか。蝸牛の塔。


 車輪のついた蝸牛に乗せられて、ウラシマは大広間に連れてこられた。


 吹き抜けになった木目調の広間には、既に他の住人たちが集まっている。彼らもウラシマと同様、それぞれの居室から蝸牛に乗せられてやって来たに違いなかった。


 部屋の中央にどんと置かれた長いテーブルを六台か七台の蝸牛がぐるりと囲んでいる。


 ウラシマの嗅覚は退化して久しいのだが、広間にはただならぬ臭気が立ち込めていることがなぜか分かった。


 ここ——蝸牛の塔——では、あらゆる境目が溶けてしまい、錯乱していた。不一致。事象と事象をつなぐ因果の糸は頼りなく不安定であった


 蝸牛の上でまどろむ人間たちは、みな虚ろな目をして一点を見つめている。見つめる点はそれぞれ異なり、柱であったり、テレビであったり、テーブルの沁みであったり、あるいは眼球と壁の間に漂う透明であったりした。


 彼らは時折喋るが、多くの場合平凡語を形成できず、言葉はどこにも到達しないで消えてゆくのだった。だから彼らはいつも懸命に平凡語を探している。ウラシマはつぶさに観察していたので彼らの懸命さをよく知っているのだ。


 ウラシマは指定位置に着くと「困ったことになったぞ」という平凡語をこぼした。とくに困ったことはなかったが、そう言った。


 ウラシマは、自分が蝸牛の塔で唯一、平凡語を喋ることのできる人間であると信じ、そのことを誇りに思っていた。




 ウラシマが自身の平凡語に対して誰からも反応がないことに憤っていると、隣で、利発的な顔面に大きなメガネをかけたアライグマ風の男が、蝸牛に寄りかかったまま高音でぶつぶつとつぶやき始めた。




 対面でテーブルを拭いていたリスに似た女がアライグマ男の様子に気づき「あら、またアキオさんのおまじないが始まったのね」と笑いながら言った。リス女は蝸牛に乗っていない。


「あーパラパラパラパラ。どうしたって浪漫・ザ・曼荼羅。パラパラ痛いの。スカンジナビアわだかまり。海老反り家内、パラパラ」


 アライグマ男は、苦悶の表情でそのように聞こえる言葉を紡いでいた。昨日も一昨日も、彼はずっとこの呪文めいたルーチンワークをこなしている。一定に保たれたリズムは継続の賜物であるとウラシマは感心した。


 アライグマ男の呪文は、テーブルを囲む他の人間たちには全く届いていないようであった。


 誰もが虚空を見つめ茶を飲んだり、広間の奥に置かれたテレビを無表情に眺めるなど、亡霊の真似をしながら呼吸に取り憑かれている。


 広間を見渡すと、蝸牛に乗らない異形の者もいた。豹の模様をした牛の胴体に金目鯛の顔がくっついた奇存在は、三日前の昼下がりにやってきて以来、自慢の六本脚を活かしてフロア中をぐるぐると旋回している。


 ウラシマの隣室で暮らしていたソウタロウさんがいなくなったのも三日前であることから、金目鯛とソウタロウさんの失踪には因果関係があるはずだとウラシマは睨んでいた。


 テーブルの上ではドロドロに焼け爛れゼリー状になった「腐溶炎君」が裸で踊っている。焼けて溶けそうだから裸なのか、もともと裸が好きなのかは判断できなかった。


 さらには部屋のあちこちで虹色のコウモリと山羊色のヤギが飛び交い、広間中央に浮かぶ緑色の球体は、まるで彼らの飛び交いを司っているかのように不気味な発光を続けている。しかし実際のところ、あの球体には何かを司るほどのパワーはないだろう、とウラシマは推察していた。


「それじゃあみなさん、今日はこれからゲームをしましょう」リスの女が混沌を制し統一するかのように声を挙げた。集められた面々がリスの方を向く。


 ウラシマはまたか、と思った。何かが強制的に始まる雰囲気の機微を感じとったのだ。


「これから、私が一人ひとりに一枚の絵を見せます。皆さんは、絵を見て感じたことを言葉にしてください」リスの女ははきはきとした口調で説明した。


「たとえば、お花の絵を見たら、きれい、と言ってください」


「きれい」誰かが言った。


「まだまだ」リス女は苦笑しつつ、声の発信源に手のひらを向けた。


「としこさんから時計回りに順番こで聞いていくので、自分の番が回って来た時だけ答えてくださいね」


 ウラシマはリスの女が何を言っているのかよく分からなかった。女の横で踊り狂う腐溶炎君に気を取られていたからである。


 だがそんな事情に配慮されることもなく、不可解な催しの火蓋は切って落とされた。


「はい、それじゃあとしこさん、この絵をみて感じたことを皆さんに伝えてください」リス女はそう言うと、大きな四角い装置を両手で持ち上げた。


 装置には飛行機の絵が映し出されている。


「鹿児島」絵を向けられた女は言った。


 するとリスの女、近くにいたミミズクの女、奥のキッチンで作業していた天狗男が一斉に笑った。


「鹿児島? なんでー? としこさん」「ウケる」陽気なムードが立ち込めて、ウラシマもなんだか笑いたい気持ちになった。


「では次、ショウジさんねえ」リス女は装置を自分の方へ向けて、表面を人差し指で撫でながら言った。女が再び装置をこちら側へ向けると、中の飛行機は犬の絵に変わっていた。


「はいどうぞ」リス女は期待の眼差しでショウジさんと呼ばれる細身の男に装置を見せる。


 細い男は得意げに「犬、犬だ」と装置を指差して言った。指の周囲をコウモリがニヤニヤしながら舞っている。


 再びリスとミミズクが笑う。テーブルを囲む他の人間たちも一様に目を細め出した。腐溶炎君は彼らの中央で絶え間なく踊る。


「じゃあお次はジロウさん」リス女は、装置の絵を富士山に変えた。男が「登山」と言うと、リスと天狗が拍手を送った。


「すごいすごい、ジロウさん」


 次はネズミの絵だった。四角い顔の女が「お味噌」と答える。


「ゆり子さん、面白いー。 なんで味噌なのよー」


 リスたちは歓喜の声を上げた。続いてアライグマ男の番になった。装置は海に浮かぶ船を映している。


「パラパラ痛いの」


 アライグマ男は同じつぶやきを続けるのみだった。


「じゃあ、次はタカオさん、お願いねー」リス女が言う。


 タカオさんとはウラシマの下の名前である。


 ウラシマは面食らってしまった。自分に順番が回ってくることを計算に入れていなかったのだ。


 装置はりんごを映した。ウラシマは緊張した。


 何と答えればよいのだろうか。りんごから連想される事柄。赤? 果物? そのどちらかが適切に思えた。


 ウラシマが口を開こうとしたとき、リス女の斜め後方で旋回していた金目鯛顔の牛がこちらを睨んだ。その禍々しい瞳は「排水溝と答えよ」と脅迫している。


 ウラシマは錯乱した挙句「赤い赤い排水溝」と答えた。リス女は困惑の表情を浮かべた。


 それから催しはしばらく続いた。


「としこさん」「殿様」「ショウジさん」「ガソリン」「ジロウさん」「マッカーサー」「ゆり子さん」「人食い百足」「アキオさん」「パラパラ」「タカオさん」「タカオさん?」


 しかしウラシマは、金目鯛に睨まれ続け心ここに在らずという状態に陥っていた。象の絵をみて「腐溶炎君」と答えたのは恐怖に駆られていたからにほかならない。


「ふようえんくん? 何それちょっと、アキオさん」


「ウケる」


 リス女や天狗男たちは笑うが、金目鯛は睨み殺すべくウラシマから視線を外さない。


 ウラシマは恐怖に耐えられず、ついに脱糞した。


 ウラシマはそれ以降催しに参加することもできず、自室で壁に飾ってある絵画をぼうっと眺める日々を送った。


 豹柄の牛金目鯛は、それからも連日ウラシマにつきまとった。


 ウラシマがベッドから起き上がれない状態になっても、食べることも飲むこともできない状態になっても、傍から消えることはなかった。


 そして時々目を合わせては「排水溝と答えろ」と脅迫し続けたのである。次第にウラシマは、自室と赤い排水溝の区別がつかなくなり、ある日とうとう排水溝へ落下した。


 ひゅーんという音が下から上へ何度も立ち上った。落下は堕落、欠落、脱落、陥落、没落、墜落といったあらゆる落差を感じさせつつも快落であった。奈落の底から声が聞こえた。


「生きるついでに死ぬ男よ。死ぬついでに生きた男よ。散りながら咲き、咲きながら散るときがきた」


 そして気づいた時、ウラシマは白い世界で落馬していた。



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