「生死を定義づけなければ思考もできんか」

 地響きが静寂の底を叩く。音はあっという間に大きくなりウラシマの背後で止まった。


 振り返ると馬がいた。


 漆黒に墨汁を塗ったように黒い馬だ。なるほどこの草原が白一色で構成されているのは、この馬に黒を使い切ってしまったからか、とウラシマは奇譚な納得を覚えた。


 馬は山脈のように隆々と逞しく、堂々たる佇まいで白い草原を踏みしめ君臨している。


 鷹揚な威厳を纏った神々しい四本の脚。はち切れんばかりに隆起した胴体の筋肉。そこから突き出る巨木の如き首では、凛とした長いたてがみが靡く。巨木の先端では、尖った瞳から朱い灯がほとばしる。


 ウラシマは、しばらく呆気にとられ巨大な馬に見とれていた。しなやかな黒い曲線と背後に拡がる平坦な白世界のコントラストは水墨画のようであった。


「なんだ貴様は」


 馬は、馬が喋ることは自然律の基本原理であり宇宙法則の第一項であるかのように、自然と、悠然と喋った。


 ウラシマは全身全霊、きょとんとした。


 ウラシマは先ほどの「なぜここにいるのだ」という自問を思い出し、きょとんを振り払って冷静に分析した。馬がしゃべるのだからここは夢のなかだろうか。夢を夢と自覚する、明晰夢という現象かもしれない。


 何にせよ、たとえ夢であっても失礼な発言は見過ごせない。「馬に貴様呼ばわりされる筋合いはない。お前こそなんだ」ウラシマは毅然とした口調で答えた。


「馬? ほう。なるほど。そうかそうか。今日は馬か。馬になるのは初めてだ。興奮を隠せんな」


「何を言ってる。どう見ても馬じゃないか」


「見ての通りここには鏡がないのでな。自分の姿を確認できん」前足で地面を掻きながら馬は言った。


 舞い上がった白い砂ぼこりがウラシマの目に入り、眼球が異物感を訴えた。妙だ。夢にしてはディティールが細かすぎる。眼球に入った砂埃の嫌な感じまで再現される、そんな夢はありえない。ではここは夢じゃないのか。かといって現実とも思えない。


 ではこの白い世界はなんだ。目の前の黒い馬はなんだ。


 眼前で確かに巻き起こっているモノクロームな出来事は、疑問の洪水となってウラシマの頭に濁流をつくった。


 堪りかねたウラシマは、まっすぐに馬の朱い瞳を睨み矢継ぎ早に聞く。


「お前は何者だ。なぜここにいる。そもそもここはどこだ。どうして俺はここに来——」


「五月蝿い」


 ウラシマが言い終える前に、馬は疾風のいななきで問いをシャットアウトした。


「それらの問いに対する回答はひとつ。知ったことか。以上だ」馬は言い終えると突き放すようにぶるると鳴いた。


「なんだと。じゃあなぜ、お前は訳知り顔で現れたんだ。俺に何かを伝えるためではないのか」


「いいか、俺が貴様の軟弱な疑問に答えてやる義理はない。答えるとしたら気が向いた時だけだ。現在俺は気が乗らない。だから答えない。それから、初対面でお前と呼ぶのは失礼だ。改めろ」


「初対面で貴様呼ばわりしてくる奴に言われたくない」


「生意気な猿め」


 どうやらこの巨大な黒い馬は友好的な関係を構築する気がない。ウラシマは、真相を聞き出すには自分の頭を使うしかないと悟った。


 そして、自身に巻き起こっている事象についての仮説を伝え、馬の反応から真実に近づこうと企んだ。


「察しはついたぞ。ここは死後の世界なのだろう? もしくは死後の世界と現実世界の狭間にある空間だ。そしてお前は、馬の姿をした案内人だ。違うか?」それは半ばあてずっぽうだったが、実際にウラシマのなかで膨らんでいる疑念でもあった。


「ふはは。俺が案内人? なぜそんな面倒なことをしなくてはならないのだ」馬はいかにも呆れ果てた様子で答える。


「違うのか? 馬の姿をしているのは、俺を乗せてどこかへ連れていくためだ」


「どこかで聞いたような設定だな。くだらない。いいか人間。俺は何者でもない。貴様と同様にな」


「どういうことだ」


「やれやれ」


 馬は威厳たっぷりにウラシマへ近づき、鋭い瞳をさらに尖らせた。


「俺はフクロウだったこともある。牛や豚や山羊や狼だったこともある。巨大モニタースクリーンだったことも、杖をついた老人だったことも、美しき女だったことも、ロボットだったことも、姿なき者だったこともある。見る者の意識が俺をかたちづくるのだ」


「まるで理解できない。いったいどういう……」


「自分が何者かなど興味ない。好きに名付ければいい。選択権は常に貴様の手にある」


 ウラシマは発するべき言葉を見つけられず、かわりに唾を飲み込んだ。


「この場所が死後の世界だと思いたいのであればそうしろ。だが死後だの生前だのという概念自体、貴様らが考えた凡庸な設定にすぎない」前脚で地を叩きながら馬は言った。


「生があり死があるからこそ人間は命を感じるんだ。生きているのか死んでいるのか、夢なのか現実なのか分からないこの状況に俺は耐えられない。頼む。教えてくれ。ここはどこだ」


「生死を定義づけなければ思考もできんか」馬はふむ、と一息ついたあと納得できない口調で続ける。


「不可解なのは貴様らの方だ。これまで多くの人間と対峙したが、みな一様に貴様と同じような愚問に囚われるのだ。ここはどこだ。自分はなんだ。お前は誰だ。我々はどこから来てどこへいくのだ、とな。なぜ人という生き物はそんなにもシチュエーションを知りたがる」


「隠されたものを暴きたくなるのは人間の性だ。馬には分からない」


 馬は鼻を鳴らした。ウラシマは、馬にも鼻で笑うという侮蔑表現があるのだとその時知った。


 とにかく馬は侮辱の色を浮かべながら「透明に色を塗りたくるが如き倒錯的遊戯。まさに絵空事だな」と吐き捨て、次に「乗れ」と言った。


 ウラシマは顔いっぱいに困惑を浮かべて馬を見た。しかし次の瞬間には馬の背で風を受けていたのである。馬に乗るのは初めてだった。


 馬は風のなかで言う。「俺が夢なのか幻なのか、ここが死後の世界かどうかなど、こちらは知ったことじゃない」


「なんだなんだ」


 ウラシマは情けない声を出すのが精一杯であった。


「俺は来訪者の影。無意識。あらゆる策謀、智略、崇拝、存亡、原理、普遍、罪と無関係の——」


 馬が言葉を紡ぎ終える刹那に、ウラシマは前方の空が割れるのを確かに見た。裂け目から色彩が漏れていた。茶色。オレンジ、グレー、藍色。また、音楽と誰かの声も聞こえる。


 あれは……。


 ウラシマはどういうわけか、その色や音に懐かしさを感じた。


 あれは中身。あれは既存。あれは自他。あれは有無。あれは輝き。


 馬の走破するスピードがウラシマの意識を置き去りにする。馬は裂け目に向かい一直線に舞う。


 ウラシマは恐怖のあまりお母さん、と言いたくなったが自重し、代わりに「むーちょ!」と叫んだ。

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