第20話



「いい加減しろ!」


 泣き喚く小さな子に向かって右手が振り落とされた。


 バシッッ


「うわぁあああん。ママぁ……」

「辞めてください。柚はまだ小さいんですよ」


 海夏君のお母さんの頬が少し赤くなった。柚ちゃんを抱き寄せながら庇ったのだ。

 扉を開けてからあたしは海夏君の元へ行った。そして、倒れて気を失いかけている海夏君の片腕を自分の肩に回す。


「お前がちゃんとしつけなかったからだろぉ」


 柚ちゃんを守りながら、背中に蹴りを受け続ける姿に、声にならない悲鳴がでた。

 工事の音、泣き叫ぶ声、怒涛、涙。もう頭の中が渦巻いてしょうがない。

 隣で海夏君が傷の苦痛からか呻く。


「うう……」


 どこからか強い意志を感じて視線を向けると、海夏君のお母さんだった。

 乱れた髪の隙間から「行きなさい。早く。私達のことは構わずに早く」そう訴えていた。

 私は頷き、海夏君を少し引きずるような形で扉を開けたまま通過し廊下に出た。

 暗い廊下に出た瞬間、涙が止まらなかった。暗くて怖いからじゃない。義父が怖いからじゃない。柚ちゃんの声が。今も聞こえるんだ。


「マ……マぁ。おと……さ……ごめんなさいぃ。にい……ちゃ……置いでかないでッ。置いてかないで。行かないでぇ。柚ちゃもママも……連れてってぇ」


 それを涙声でなだめる声も。


「うっ……ごめんね。柚ッッごめんね。ごめんね、ごめんね」

「ゴタゴタうるせえんだよッ」


ドスッッドスッバシッッ


「ううっ……ごめ、んね。柚。ごめんね」


 廊下まで聞こえてくるんだ。ずっと。


――何も出来ない自分が憎い。


 でも、それを直ぐにどうこうできる問題じゃなくて。今はただそれを背中越しに聞きながら海夏君を連れて行かないといけなくて。


「うっ……ゆ……ず。ふわッッな……に……」


 肩に回した腕を支えていた手を振り払われ、そのまま海夏君が廊下の壁にぶつかり、ズルズルしゃがみ込んだ。


「俺は……助けなきゃ。そのために、俺は戻ってきた。柚が、母さんの声が。母さんがいるならなおさら、皆で、逃げなきゃ。ふわりは先にー…」


バシンッ


 はじめて。あたしは本気で人の頬を叩いた。


「そんな体で何いってるの? そんなボロボロの体になってまで何いってるの?!」


 海夏君も驚いていた。でも、すぐに目を伏せて、唇を噛み締める。

 それからは、促されるままにあたしに体重を少し預け、足を引きずりながら一緒に進んだ。

 どんなに声が聞こえてもあたしたちは振り返らなかった。振り返れなかった。振り返ってしまったらもう……。

 玄関を出ると、すっかり夜になっていた。

 生きた心地がしない。別世界から帰ってきたみたいだ。

 ふらつきながらも、あたしたちは街灯の下辿って、支え、支えられながら歩いていった。

 

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