一番最後の冬の雨




 ウィンターレインの目が大きく見開かれる。ニコラスは自分がどうしてその名を口にしたのか分からないまま、ただ突然のしかかってきた圧に耐えきれず膝をついた。

 動けない。声もあげられない。すぐそこに居るはずのウィンターレインがひどく遠く感じる。彼は何か叫んだようだが、聞こえない。

 気の遠くなるほど濃い空気の中、現れたのは──


「……ああ、久しぶり、ね」


 ──とても。

 とても、美しい人。

 黒の髪と真っ白な肌と、青色の宝石のような瞳を持つ人。

「オリヴィエ……」

 そう呟いたのはウィンターレインかニコラスか。あるいは二人同時にか。

 この人がオリヴィエ・ドット。これが『原初の魔術』。ニコラスの頭に凄まじい量の情報が流れ込んだ。──いや、思い出した。

 ウィンターレインがあの夜にした話。三十年前の、更新される前の世界の話。

「アーロン」

 鈴の鳴るような声でオリヴィエは呼ぶ。ウィンターレインの本当の名前を。

「オリヴィエ……なぜ、君が……」

「馬鹿ね、貴方。冬の雨の次の日にピンヒールで出かけるくらい、馬鹿」

 ニコラスはただ見ていることしかできない。今すぐウィンターレインに駆け寄りたいのに。叫びたいのに。できない。圧倒的な密度の魔力を前にして、ただ屈することしかできない。

「貴方が楔よ。私は世界から消えたように見えたでしょうけど、貴方が私を覚えていた。その時点で封印は完全ではなかった。貴方の執着の果てってこと。貴方そんなに私のこと好きだったのね」

「……」

「そして、あとはそこの少年ね。良い生贄をありがとう。彼をこちらに渡してくれたら、『原初の魔術』はもう一度、今度は完全に、消えてあげる」

「……駄目だ、オリヴィエ。それは駄目だ」

 ウィンターレインが首を横に振る。オリヴィエの目が細まる。

 なんて美しく、恐ろしく、冷酷な瞳。

「彼は無関係なただの子供だ。だから──」



「──待って! 待ってください!」



 ようやくまともに声が出た。体裁もプライドもかなぐり捨てて叫ぶ。

「僕の、僕のもの、何でもあげます。命でも、体でも、存在でも、何持っていっても良いです。だから、だから……!」

 オリヴィエがこちらを見る。

 表情は特にない。退屈な授業中に黒板から視線を逸らし壁の染みを眺めるような、そんな目でニコラスを見ている。

「だから……! その人を連れて行かないでください……!」

 ウィンターレインを、アーロン・ヴィンセントを忘れるくらいなら自分が消える方がずっとずっとましだ。

 べそをかきながら必死に懇願する。

 彼の居ない世界なんて、どう足掻いても無価値だ。ニコラスにとってはそうなのだ。

「……そう」

 オリヴィエは言う。

「なら貴方をもらうわ。アーロンより覚悟ができてるみたいだし」

「オリヴィエ!」

「……何、アーロン。どっちもがどっちもを手放しがたいの? ふふ、笑える。私が悪役みたいじゃない」

 オリヴィエは笑い、ニコラスへ近づいた。空気がより濃くなって、息が詰まる。

「良いもの持ってるわね、少年」

「……え?」

 ニコラスの胸元の赤い宝石の指輪。オリヴィエはチェーンを外し、その指輪を手に取った。

「これと、そうね。アーロン。貴方の魔力。それで手を打ってあげる」

「オリヴィエ……君は、自ら再び封印されると?」

「そうよ。貴方愛されてるもの。私は私と貴方を裏切り虐げた世界を憎んだ。だからこうなった。でも『原初の魔術』がない世界は貴方を愛している。滅ぼす理由はないわ。でも目覚めてしまった以上ただでは消えられないし、それにね」

 オリヴィエはまたニコラスを見る。

「少年。私、彼の愛を貴方に譲る気はないわ」

 ウィンターレインへ近づき、そっと口づけをして。

「愛してるわ、アーロン。貴方がもう一度世界に絶望したとき、今度こそ貴方ごと世界を殺すから」

「……ああ。でもそこの彼が居る限り、私が絶望するのは難しいだろうね」

「でしょうね。そんな気はするわ」

「……」

「何」

「……大好きだ、オリヴィエ」

 一瞬。

 一瞬だけ、ニコラスには見えた。

 仲睦まじく手を取り合って笑う男女が。アーロン・ヴィンセントと、オリヴィエ・ドットが。




 気がつけばそこは、ただ閑散とした霊園で。

 何事もなかったかのようにニコラスは立っていた。目の前の少し先に、ウィンターレインも佇んでいる。はっとして胸元に手をやると、赤い宝石の指輪がなくなっていた。

「ウィンターレイン、さん」

「……うん」

 帰ろうか、とウィンターレインは言う。


 今年初めての雪が降り始めていた。



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