「     」




 ふと、ひとつの固有名詞が頭をよぎる。

 言葉にすればコンマ一秒ほどのその単語をどうして思い出したのかは定かではない。そもそも自分はこの単語を『思い出した』のか。思い出したのではなく、ただなんとなく『思いついた』だけではないか。

 そんなことをあれこれ考えながらドアノブに手をかけ、鍵がかかっていることに気づく。

「ウィンターレインさん? ウィンターレインさーん、貴方のダーリンが到着しましたよー。……あ」

 ──そういえばウィンターレインは昨日、野暮用があるから少し遅く来るように言っていた。考え事に夢中ですっかり忘れていた。どうりで鍵がかかっていて呼びかけても返事がないはずだ。

「どうしたもんかな……」

 しばらく考えたのち、ニコラスはしばらく街を歩くことにした。じっとしていては寒いだけだし、馬鹿正直に突っ立っていればそれこそまたウィンターレインに馬鹿呼ばわりをされてしまう。

 森を抜け、寂れた空き家の並ぶ細い道を抜け、住宅街を抜け。

 この街で一番大きな霊園の門の前を横切るとき、ニコラスはふと足を止めた。

「……」

 ここで。

 ここで、ウィンターレインと初めて会った。

 あのときは確か遠い親戚の葬式でここに来ていて、つまらないから抜け出して、そのままむちゃくちゃなことを言ってウィンターレインの家に押しかけた。

「懐かしいなー……」

 特に用事はないが、霊園に踏み込む。

 そういえばウィンターレインはあのとき何をしていたのだろう。家族の中の誰かの墓参りだろうか。

 ……いや、アーロン・ヴィンセント博士は滅びた民族の魔術儀式再現に成功した際、記者の『この感動は誰に一番に伝えたいですか』との質問に『家族とは絶縁しているので、この成果が今後の研究に繋がれば、それだけで満足です』と答えていたはず。親族ではないとすると……。

「……」

 ──恋人?

 そんな単語が頭をよぎる。

 いやいやそんなまさか、前に本人から独り身だと聞いたじゃないか、それに恋人が居るならもっとはっきりと自分を拒絶していたはずだし……。

「……あれ?」

 ニコラスは雫が頬を伝って顎に到達してから、ようやく自分が涙を流していることに気がついた。

 どうしてだろう。胸が痛くて仕方ない。ニコラスの心の中のウィンターレインが占める場所に、何かとても大きな穴があいているような……。

 わけも分からず涙をぬぐいながら歩いていると、ついに霊園の端っこまで来てしまった。

 ──そして。そこにはウィンターレインが居た。

 出会った日と、同じ。ただうなだれて、何も言わずに。

「あ……ウィンターレイン、さん」

 呼びかけてからあわてて袖口で顔をこすり、涙を隠す。ウィンターレインは静かにこちらを見た。

「……なぜここに……」

「ち、違うんです、貴方を尾行してたとかじゃなくて、ほんとにたまたま……」

 脳裏に一瞬の痛みが走る。

 喉の奥に突っかかった固形物を吐き出すように、自らの意図とは関係なくニコラスは『それ』を口にした。

 どうしてか頭にこびりついた、その名前を。


「……オリヴィエ……」




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