オリヴィエ
「……」
頭が重い。体がだるい。ハーブティーの香りがする。
ゆっくり体を起こすと、そこは見慣れない部屋のベッドの上だった。ベッドランプのささやかな光以外真っ暗なことで、今が夜であることを察する。
言い様のない疲労感でもう一度身を倒し枕に顔を埋めると、ウィンターレインの匂いがした。しばらくそのままもだもだとしていたが、やがて意識もはっきりしてきて、ニコラスはベッドランプを消して部屋から出た。
「ああ、起きたかね」
「……ウィンターレインさん」
「ん?」
「……ごめんなさい。その、僕……」
「いいよ」
「……」
ウィンターレインはいつもと変わらず背もたれのない椅子に座って、本を読んでいる。
「茶の用意ができているから、座りなさい」
「……ありがとうございます」
カップに注がれたハーブティーを見つめる。
ここは優しい。この家の中は、こんなにも優しい。
「ウィンターレインさん、『帰ってきて』って言いましたね」
「は?」
「僕が来たとき。『子供が怪我をして帰ってきて大袈裟も何もあるものか』って」
「記憶にないな。言ったかね、そんなこと」
「言いました。記憶力には自信があるんです」
気だるいまま笑う。
「僕、ここに帰ってきて良いんだなあ……」
「寝ぼけたことを言うものじゃないよ」
ウィンターレインも少し笑った。
「コート、洗っておいたからね。夕食に何かリクエストは?」
「……ふふ」
「何を笑っている」
「なんだか新婚みたい。目が覚めたらハニーの居る生活」
「口の減らない子だね。まあ元気が出たようで何よりだよ」
「うふふ。ミートソースのスパゲティが食べたいです」
「はいはい」
ウィンターレインが席を立つ。
彼は何も言わないが、夕食のリクエストを訊いた時点でニコラスを泊めるつもりなのだろう。どうしようもなく嬉しくて、ニコラスはテーブルに突っ伏した。
やがて望んだとおりのスパゲティが運ばれてきて、ぽつぽつと話をしながら二人でそれを食べた。
「……ニコラス君」
「あら珍しい。ウィンターレインさんから口を開くなんて。どうしたんです?」
食器を片付けたあと、ウィンターレインがふと言葉を発する。
「君は私がなぜ魔術史学者をやめたか、知りたがっていたね」
「ええ」
「……」
ニコラスの向かいに座って。
ウィンターレインはひとつ息をつく。
「……『原初の魔術』はね、もうないのだよ」
「ない、とは?」
「いや、ないという言い方は正確ではないね。すまない。もう世界に姿を現さない、と言うべきか」
彼が自ら過去の話を始めたことに、ニコラスはひどく驚いた。
興味はありつつも訊けずにいたとはいえ、いざ始まるとひどく緊張する。
「三十年前まで、私の傍にはオリヴィエ・ドットという女性が居た」
「オリヴィエ……さん? 聞いたことのない名前ですね」
「だろうね。彼女はもう居ないから」
「……?」
「オリヴィエはとても優秀な人だった。私よりずっと。よく『貴方って馬鹿ね』と笑われたよ。『それは冬の雨の次の日にピンヒールで出かけるようなものよ』と。それが口癖だったんだ。私は彼女と二人で魔術史学の研究をしていた。二つの古代言語の解読、古い魔術儀式の再現。七十パーセントは彼女の功績だ」
「そ、それならここまで名前が出ていないのはおかしくないですか? どこにも、その……何でしたっけ、あれ、名前……」
思い出せない。確かに聞いたはずなのに。
ウィンターレインは表情を変えずに話を続ける。
「私とオリヴィエは『原初の魔術』に辿り着き、それを世界に発表した。結果、起こったのは戦争だ」
「戦争ですって?」
「ああ。星ひとつを滅ぼすほどの密度と大きさの魔力の塊だ。手に入れれば神にも等しい存在になれる。誰もがこぞって取り合った。そして世界は半壊して……オリヴィエは人類に絶望した」
「そんな……そんな記録、どこにも、」
「オリヴィエは『原初の魔術』に自らの身を捧げ一体化し、人類を滅ぼそうとした」
頭におびたたしい数の疑問と驚愕が溢れる。
作り話としか思えない。しかしそれを語るウィンターレインの顔を見れば、作り話とは思えない。
何も言えずにただ彼の次の言葉を待つ。
「当然止めたよ。私は『原初の魔術』、それとオリヴィエを封印した。自らの人間の形と、オリヴィエの存在自体を引き換えにしてね」
「存在、自体を……」
「そう。あらゆる記録は塗り替えられ、世界は更新された。オリヴィエ・ドットは初めから居なかったことになった。そして私はヒトの形を失い、化け物になった。あとは察せられるだろう。私もすっかり厭世家になりこの生活だ」
ふう、とウィンターレインは息をつく。
「あらゆる記録に残らない。即ち人々の記憶にも。ほら、もう彼女の名前を思い出せないだろう?」
「そん、な……」
一瞬静寂が訪れ、雨音が部屋に入ってくる。ああ雨が降っているね、とウィンターレインは窓の外を見た。
「……ニコラス君。私は今でも、彼女を愛している」
「……!」
「これが言いたかっただけだ。長々とすまなかったね。もう遅いから、風呂に入って寝なさい。今支度をするから」
言い、彼は席を立って行ってしまった。
もう話の半分ほどを思い出せない。ただ最後の言葉はまだ耳に染みついている。
愛している。
愛している、か。
「……しっかり振られちゃったな」
ニコラスはふっと笑って、少しだけ泣いた。
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