痛み




 冬休みが終わって。

 そう言えば昨日ウィンターレインさんに学校が始まると言い損ねたなあ、とぼんやり考えながらニコラスは通学路を歩いた。

 昨日の夜は雨が降ったらしく、地面は所々濡れていたり凍っていたりして歩きにくい。

「……っと、」

 ふと体のバランスが崩れる。どうやら誰かに後ろから突き飛ばされたらしいと理解する頃には、ニコラスは前のめりに水溜まりへ倒れていた。

 背後から押し殺した笑い声がする。

 立ち上がって振り返ると、四つ年上の同級生達がこちらを見ていた。

「急に人を突き飛ばしちゃ駄目ですよ。コートが汚れちゃったじゃないですか」

 またくすくすと笑い声が起こり、男子生徒のひとりがもう一度ニコラスの肩を勢いよく押した。ニコラスが今度は尻もちをつくと、また笑い声が起こる。

「何なんですか。やめてください」

 立ち上がって泥を払って。

 何事もなかったかのように学校へ向かおうとすると、背中を蹴られた。

 痛いが別につらくはない。ただニコラスは、ああ始まったな、と思った。

 四年も飛び級したことを妬んだ同級生に避けられている自覚はあったし、それ自体は全く気にしていなかったが、とうとう実害が出てきてしまった。ニコラスとて『いじめ』という概念を知らないほど浮世離れはしていない。

 学校に到着する頃にはニコラスの服や顔は泥だらけで、転んだ擦り傷や蹴られた靴跡がいくつも刻まれた。

 教室がざわつく。教師は声を大きくして同級生達を叱ったが、それが逆効果であることもニコラスは理解している。

 授業が終わるとそそくさと学校を出て、ウィンターレインの家へ急いだ。

「ウィンターレインさん! こんにちは!」

「ああ。今日はずいぶん遅か、った、ね……」

 扉を開いて迎えてくれたウィンターレインの言葉が宙に浮く。

 なんと説明したものかなあ、とニコラスは苦笑した。

「……誰にやられた?」

「え?」

「ああいや、違うな。まずは泥を落として傷を治そう。入って待っていなさい。回復魔術の儀式に使う道具を持ってくるから」

「いや、そんな大袈裟な……。ただの擦り傷ですよ。泥だって洗濯すれば……」

「子供が怪我をして帰ってきて大袈裟も何もあるものか!」

 今までにないウィンターレインの圧に、ニコラスは思わず黙る。

 ウィンターレインは怒っている。ニコラスにではなく、ニコラスを傷つけた誰かに怒りを向けている。

「……」

 彼は速やかに回復魔術の用意をしてそれをニコラスに使い、泥だらけのコートを脱がせて洗濯カゴへ放り込んだ。

「……」

「痛かったろう」

「……」

「やり返したかい?」

「いいえ……別に、憎くはないですし」

「そうか。君は優しい子だね。私なら殴り返していたよ」

「……」

 ウィンターレインの腕がニコラスを抱き寄せる。十四歳よりもっと幼い子供にするように、優しく背中をさすって。

「……」

「無関心は良い。無抵抗も良い。しかし無感情になってはいけないよ、ニコラス君。痛みや悲しみは表に出してなんぼだ」

「……う」

 そんなつもりはなかったのに。

 喉の奥から嗚咽が漏れる。頭の奥が熱くなって、涙が溢れて、止まらなくなる。

「ウィンターレイン、さん」

「うん」

「い、痛かったんです、僕」

「うん」

「今まで、無視、つらくなか、った。けど、なんで、僕蹴られて、教科書だって、どうせ魔術で直せるんだろ、って、ずたずたに、されて」

「……うん」

「先生だって、いじめ、『やめなさい』でやめない、って分かってる、くせに、何も、何も……してくれ、なくて」

「……」

「う、ああ、あああ」

 みっともない、と自分をどこかで俯瞰して見ているもうひとりの自分が言う。

 ウィンターレインとの時間は楽しいものにしたいのに。笑顔以外は極力見せたくないのに。

 ニコラスは散々泣いて、声も涙も枯れる頃に眠ってしまった。ウィンターレインはその間もニコラスを抱きしめていた。

 『ウィンターレイン』の花の匂いが、微かに漂っていた。




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