虫食いの記憶




「忘れなさい」

 本日のウィンターレインの第一声はこの言葉だった。

 ニコラスは「何を忘れろっていうんです?」などとふざけつつウィンターレインに飛びつこうとしたが、さすがに避けられた。そしてついでと言わんばかりにまた尻尾で膝裏を叩かれた。

「もう体調は良いんです?」

「ああ、まあね。もう平気だ」

「なら良かったです。あ、僕ね、実はオリジナルのブレンドハーブティー考案してきたんですよ。ちょっとキッチン借りますね」

「ほう。貸すのは構わないが、汚すんじゃないよ」

「はーい」

 ニコラスは意気揚々とキッチンに入り、持参したハーブを取り出して棚に置いてあった陶器のポットに手を伸ばす。

「……」

 棚の中にはティーカップが二つ。銀のカトラリーセットが二つ。皿もグラスも全て二つずつ。

 どう考えても『もうひとり』が居るんだよなあ、とニコラスは首をかしげる。一昨日ウィンターレインが口走ったあの名前が関係しているのだろうか。

「……あれ? 何さんだったっけ……」

 具体的な名前が思い出せない。記憶がそこだけ虫食い穴のように欠けてしまっている。

「記憶力には自信があるんだけどなあ……」

 しかしまたウィンターレインに訊ねるのもなあ、と考える。また地雷を踏みそうでやや怖い。

 もやもやした気持ちを抱えつつも完成したハーブティーをティーカップに注ぎ、ウィンターレインに差し出す。彼はそれを受け取って、少し匂いを嗅いでから静かに飲んだ。

「うん、悪くないじゃないか」

「ほんとです!? やったー!」

「入っているハーブを全部間違えていたような子がねえ……人は成長するものだね」

「えっへん」

 ふんぞり返って笑うと、ウィンターレインも少し笑った。

「ねね、何か話してください」

「どうした、突然」

「今は君の声が恋しいんだ、マイハニー」

「昨日のことは忘れなさいと言ったはずだが?」

「はいはい。でもそれにしたってハニーの声はいつでも聞いていたいですよ」

「物好きめ。……しかしまあ、良いだろう。魔術史と人類史の類似点と相違点の解説などはどうかね」

「望むところです」

「よろしい。では始めよう。まず、古きを探り歴史を学び、そこから人間の歩みを見るという点ではこの二つの学問は非常に似ている。ゆえに学生だと魔術史学と人類史学を同一視する子も居るね」

「ええ」

「しかしそれは間違いだ。魔術史学と人類史学には決定的な違いがある。分かるかね、ニコラス君?」

「えっと……見る時間の長さ、でしょうか。魔術史学はいかにして魔術が人間に結びつき、その結果どのような文化が生まれ廃れていったかを調べる。それに比べて人類史学は人間そのものの根源と進化を見ていく。だから、人類史学の方が圧倒的に時間の範囲が長い」

「よくできました」

 ウィンターレインはどこか嬉しそうに軽く拍手をして見せた。やはりこの人は立派な学者だ、とニコラスの方もひどく嬉しくなった。

「そう、時間だ。人類あっての魔術だからね。だから魔術史学を学ぶ上では人類史学の知識もある程度なくてはいけない。そしてフィールドワークを基本とする魔術史学者は、……」

 ウィンターレインから滔々と溢れる言葉を聞きながら、ニコラスは並行して考える。

 何だったろう、何て名前だったろう、女性の名前であったことは思い出せるのだが……。あまりに不自然だ。ウィンターレインが何か細工をした? 彼の『月の裏側』に関係のあることなのだろうか……。

「おっと、話しすぎたね」

「面白かったですよ」

「は。心にもないことを」

「そんなことないですよ、僕ハニーには嘘つきません」

「君は私の声を聞ければ何でも良いのだろう」

「間違っちゃいませんけど、なぜそう思うんです?」

 ウィンターレインは目を細めて、少しだけ口角を上げた。

「君が私を愛しているからだよ」

「……!」

 さて帰りなさい、と彼は食器を片付け始める。ニコラスは珍しく抵抗する気もわかず挨拶だけをしてウィンターレイン宅を出た。

 歩いているうちにみるみる顔が赤くなる。マフラーを口元まで上げて、ぼそりと呟いた。

「ずるいなあ、急にああいうこと言うんだもんなあ……全く油断ならないハニーだ」



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