お茶が美味しいと悲しくなる





 学校は特に好きでも嫌いでもなかった。

 家には何の関心もなかった。

 友人は居なくても困らなかった。

 両親は居ても居なくても同じだった。

 何も要らなかった。明確に幸福を感じたことはないが、取り立てて不幸を感じたこともない。

 ただ少しだけ、居心地の悪い毎日だった。




「でもそんなときに見つけた貴方ですよ。もうこれは運命ですよねえ。はーあ、恋は盲目とは言いますが、僕は一日中貴方の幻覚を見ていますよ。見えすぎて見えすぎて本当にもう、どうにかなっちゃいそう」

 両手を頬に当ててつらつらと語るニコラスに対し、聞いているのかいないのか、いい加減慣れたのか、反応するのも億劫なのか、ウィンターレインは返事をすることもなくハーブティーを作ってカップに注ぎ差し出す。

 ニコラスがそれを受け取り、ず、と啜ると「音を立てるんじゃない、行儀が悪い」と叱られた。

「ところで、ねえ、ウィンターレインさん」

「うん?」

「怒らないで答えてほしいんですけど……もう魔術史の研究はやめちゃったんです?」

「……ああ。そうだね。君が私に学者としての価値を求めているのならば諦めなさい」

「そうですか……」

 ニコラスは何度も聴いた三十年前の音声を思い出した。ウィンターレインいわく『すでに死んだ』アーロン・ヴィンセント博士の会見。

 ふたつの古代言語を解読し、数百年前に絶滅した民族の伝統魔術の再現に成功して、魔術史学における最終到達点である『原初の魔術』にあと少しで届きそうなところまで駆けて。

 そのあとの彼の情報は『引退』と『失踪』のふたつだけ。三十年経った今では、もうすでに彼の存在自体を知らない子供達が居るほどだ。

「ウィンターレインさん。こんなこと言ったら変に思われるかもしれないですけど」

「君は徹頭徹尾変だよ」

「うふふ。……ねえ。貴方は僕が産まれる前から、僕の生きる理由なんです。貴方の声に生かされるために、僕は産まれてきたんです」

「何だね、突然。妙にカルトじみているじゃないか。宗教勧誘ならお断りだが?」

 違いますようと両手を振り、ニコラスはうーんうーんとうなる。

「上手く……言えないんですけど。貴方だけが、僕の……えっと、あ、明日までには言いたいことをまとめてきますので! 楽しみにしててください!」

「好きにしなさい。どうにせよ私には関わりのないことだ」

「全くもう、ウィンターレインさんったらそればっかり。僕は貴方の最高のダーリンなのに」

「君も君でそればかりだね」

 しばし沈黙。アンティークの時計の針の音が微かに聞こえる。

 茶を飲み干そうとして、ニコラスはその手を止めた。

「……」

 帰りたくない。心からそう思った。

 外はまた少しだけ居心地の悪い世界だ。ウィンターレインの居ない世界だ。

 そんなものの、どこに価値がある?

「ウィンターレインさん、あの、」

「泊める気はないよ」

「……ですよね」

「……ニコラス君。君はどうしてそうも私に執着を……いや、違うな。逆だ。君はどうして、そうも世界から逃げようとするんだね?」

「え? 逃げようとしてるんですか僕?」

「無自覚か。厄介だな」

 ウィンターレインはため息をつき、テーブルに頬杖をついてニコラスの顔を覗き込んだ。

「な、何です!? キスですか!? 待ってくださいそういうのは僕からするって決めてて……」

「……馬鹿だな君は。冬の雨の次の日にピンヒールで出かけるほど馬鹿だ」

「僕ピンヒール履いたことないですけど」

「本当に馬鹿だな。比喩だよ。昔これが口癖な人が居てね」

「ずいぶん嫌な口癖ですねえ」

 笑って、ハーブティーを飲んで。

 それから茶を飲み切ってしまったこと、すなわちもう帰らなければならないことに気づきニコラスは肩を落とした。

「……う、ウィンターレインさん、ハグしてもらえますか!?」

「なぜだね。嫌だよ」

「お願いしますよお! ぎゅーってしてくれたら今日は大人しく帰りますから! 大人しく帰りまーすーかーらー!」

「その駄々ですでに大人しくない。……が、まあ、良いだろう」

「ほんとです!? 今日はずいぶんと素直じゃないですかこのこのー! 脈アリってやつですね!」

「脈はないよ。ただ、君のその空元気が見ていられないだけだ」

 言いながらウィンターレインは立ち上がり、ニコラスを抱きしめてとんとんと背中を叩いた。

「……」

「泣くのは帰ってからにしなさい。迷惑だ」

「……はい。ありがとう、ございます。また明日」

 涙が零れないよう気をつけながら笑って、ひらひらと手を振る。そんなニコラスに、ウィンターレインは何も言わず一瞥をくれた。


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