外はもう暗いから
「僕思ったんですけど」
昨日の雨が嘘のように晴れて、例のペパーミント色の傘をウィンターレインに返して。ニコラスはそのまま居座り、またハーブティーを飲んでいる。
よく磨かれた木製のテーブル。それを挟むように置いてある一対の椅子。その片方には背もたれがない。きっとウィンターレインが尻尾をぶつけず座れるようにこうなっているのだろう。
「この家ってちょっと変ですよね」
白い壁。ダークブラウンの絨毯。テーブルの上のふたつのティーカップ。ハーブティーの香り。大きな本棚には様々な言語の本やラベルのついたファイルが几帳面に並んでいる。
「失敬な子だな君は。気に入らないなら今すぐ出て行ってくれて構わないよ」
「気に入ってますよ。同居したいくらい」
「冗談がきついな」
「うふふ十割本気です。それより、ほら、ウィンターレインさんって僕を除けば独身ですよね?」
「君を含めても独身だよ」
「なのにこの家、何でも二つずつあるから。まるで誰かと一緒に暮らしてるみたい」
「……」
ウィンターレインは分かりやすく嫌そうな顔をした。さすがのニコラスも何か悪いことを言ってしまったのだろうかと一瞬思ったが、所詮は一瞬だ。言葉を続ける。
「もしや想い人が!? ライバルが居るだなんてそんな……いやん……」
「ニコラス君」
「はい?」
「帰りなさい」
「まぁたそんなこと言ってえ……お茶まだ残ってますよ」
「帰りなさい。今すぐに。そして二度とここに来ないでくれ。もう二度とその顔を見せるな」
「お、怒ってます?」
「君には関係ない。良いかね、私と君は何ひとつとして関係ないんだ。放っておいてくれ。私は……」
「あの、ごめんなさい、怒らせるつもりはなかったんです。ただ貴方と話がしたくて」
泣きそうな顔のニコラスを睨み、ウィンターレインは本の形をした簡易式の使い魔に「客人のお帰りだ」と話しかけた。
使い魔に激しく背中をつつかれ、強制的に家を追い出される。さすがのニコラスにももう一度中に入る勇気はなかった。これっきりでもう会えないのかと思うとどうにも泣けてきて、めそめそと涙を流しながら帰路についた。
次の日、いつもどおり教室で授業を受けて、昼食の時間になった。
四年飛び級して名門校に入り、好き勝手に優秀さを見せつけているニコラスは当然同窓生達から邪険にされ敬遠されている。
ひとりで食堂の空いている席に座り、ジャムパンをかじるとどうしようもなく虚しくなって、少し泣きそうになった。
それは学友に嫌われていることが原因ではなく、そんなことはそもそも何ひとつ気にならないのだが、ウィンターレインを怒らせてしまったことばかりがただつらかった。
「……」
小さな頃の記憶。音質の悪い旧式の音響水晶で、何度も彼の声を聴いた。低くて、力強くて、それでも柔らかい彼の声を、何度も。一語一句を覚えてしまえるほど、何度も。
──と。
「あれ?」
気づくと目の前に本がある。ニコラスのものではない。前に座っていた人が置いていったのかと思ったが、そうであれば席に座った時点で気づくだろう。
恐る恐る本に触れると、それは溶けるように形を変え、革製の筆箱になった。
「……ああこれ、僕の……」
失くしたと思っていた筆箱だ。筆箱には小さなメモ用紙がくっついていて、綺麗な字で『忘れ物』と書かれていた。
「……ウィンターレインさん」
そう、そうだ、とニコラスは立ち上がる。ジャムパンを急いで平らげ、筆箱を引っ掴んで校舎の外に出る。門を飛び越え、全速力で走ってウィンターレインの家へ向かった。
せめて謝ろう。もう一度顔を見て、頭を下げて謝って、許されなくても自己満足の域を出なくても、それでも……。
……それでも、あの声にずっと憧れて、やっと会えて、そしてこんなにも恋をしてしまった相手なのだから。
あの角を曲がればあの人の家が……。
「……あれ?」
……ない。
そこには家どころか荒れ果てた土地しかない。目隠しの結界かとも思って中に入ってみたが、本当に何もない。微かな魔力さえも感じない。
ニコラスはしばし熟考したのち、先ほど返ってきた筆箱を取り出した。こちらにはまだ転送魔術を使った際の、ウィンターレインの魔力がわずかに残っている。
精神を集中して。その魔力を辿って歩き出す。
「大丈夫……僕は優秀なんだ……好きな人に会いに行くことくらいできなくてどうする……」
途中何度も特殊な結界に当たった。途切れそうな魔力の筋道を何度も見失いそうになった。そう、それはまるで、人間そのものを拒んでいるかのように。
そして辿り着いたのは夢幻草の甘い香りが立ち込める森の中で、その頃にはもう辺りはほとんど暗くなっていた。
森の中に不自然にある家の扉に近づき、ノックする。返事はない。
「……ウィンターレイン、さん? あの、僕……謝りたくて。入りますね」
扉を開いて室内へ踏み出すと、夢幻草のにおいが嘘のように消え、あのハーブティーの香りがした。
「……鍵はかけておいたはずだが?」
部屋の奥から声がする。
「鍵開けの魔術くらいできますよ」
「君は本当に、困った子だな……強盗よりタチが悪い……」
「強盗?」
部屋の奥へ進むと、そこには傷だらけのウィンターレインが苦しそうに座り込んでいた。
体から生えていた鉱石は乱暴に引っこ抜かれたり砕かれたりして、白く硬い皮膚はところどころひび割れて。
「ウィンターレインさん!? な、何があったんですか! 怪我、怪我してるじゃないですか……!」
慌てて駆け寄ると、ウィンターレインは静かにしなさいと言って人差し指をニコラスの口唇に当てた。
「君には関わりのないことだ。だから驚く必要はないし、君が泣く必要もない」
ふう、と息を吐いて。
ウィンターレインは立ち上がる。
「こんな異形の姿では回復魔術の効きも悪くてね。もう大丈夫だ。筆箱に残った魔力を辿ってきたのだろう? 懲りない子だな」
「う、ウィンターレイン、さん」
「……」
「一体何が……」
「別に今回が初めてではない」
ウィンターレインは言う。
「私から生えてくる鉱物は、放っておけば育って抜け落ちる。それを譲るのは構わないが、それが待てない輩も多くてね。私の姿を見て金儲けを考えた者に襲われることがときどきある。今回もこっぴどくやられた。だから家ごと引っ越しだ」
「そんな……け、警察に」
「必要ない。私を利用するのが強盗から警察官に変わるだけだ」
ニコラスは泣きながら、ウィンターレインの胸の中に飛び込んだ。背中に腕を回し、その大きな体を抱きしめる。
ウィンターレインは特に抵抗はしなかった。ただ単純に驚いて固まったのか、それともニコラスを受け入れたのか、それは分からないが。
「ずっと、ひとりで、こんな痛い思いして……あんまりですよ……」
「……」
「僕が、僕が貴方を守ります。絶対、二度とこんなことがないように、絶対、絶対に……」
「……ありがとう」
「……!」
「だが必要ない。私はこうなって当然の行いをしたのだから。この生活を繰り返すことが罰だと思うことで救われているのだから」
穏やかな声でそう言って。ウィンターレインは、ニコラスをそっと自分から引き離した。
「……茶でも飲んでいくかい? その泣き顔も少しは落ち着くだろう」
「……はい」
背もたれがある方の椅子に座って。
いつものハーブティーを飲んで。
そしてようやく涙が止まったニコラスは、腫れた目をこすった。
「外、もう暗いですね」
「ああ、そうだね。さっさと帰らせるべきだった」
「……」
「……」
「……分かったよ。こう言えば良いのだろう」
お手上げだ、と言いたげにウィンターレインは両の手のひらを上に向けた。
「今日は泊まっていきなさい」
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