第十三話 理想と現実(前半)

 現実は理想を超えた。


 サプリ・メントは聖女という偶像に熱狂的な愛を捧げる聖女崇拝者である。

 彼がまだ物心ついたばかりの幼かった頃、世界は地獄だった。

 至る所に魔物が溢れ、人が死に、良心を失った人間は暴徒と化した。

 彼は魔物に恐れるよりも先に、暴徒の醜さを恐れた。

 理性を失った人間は獣ですらなかった。獣未満の悪魔だった。

 獣が人を襲っても、そこに悪意はない。

 食べる為。我が子を守る為。縄張りに入られたから。怯えたから。敵だと思ったから。

 そうした理由がある。

 だが理性を失った人間は違う。理由もなく他者を傷つけて、そして愉しむ。

 理性のない人間は悪意を持った獣で、悪意を持った獣は悪魔だ。

 その悪魔達がサプリの家を襲った。

 貧しい男爵家だったメント家は辺り一帯を治める領主だったが、暴徒と化した大勢の民に抗える力はなかった。

 家は壊され、使用人は逃げ出し、そして幼いサプリの目の前で父と兄は殺され、母と姉は暴行を受けた。

 獣……そう、獣だ。そこにいたのは人ではなかった。

 人の姿をした獣しかそこにはいなかった。

 かろうじて一人だけ難を逃れたサプリだったが、彼の心は捻じれた。

 貧しいとはいえ貴族の家で、外の汚いモノに触れる事なく育った少年の心を壊すにはこの一件は十分すぎた。

 正義、愛、慈悲、節度、優しさ、情、責任感、勇気……そうした美徳とされるものの全てが薄っぺらい嘘にしか思えなくなった。

 人は容易く獣になる。獣未満の悪魔になる。

 美徳なんて簡単に捨てて、本性を剥き出しにする。

 今は笑顔でも、その裏には醜い本性が隠れているのだ。


 そんな世界を正常に戻したのが、当時の聖女であった。

 聖女が魔女を倒し、世界には光が戻った。

 すると驚いた事に、今まで悪魔になっていた連中が慌てたように理性の仮面を張り直して人間へと戻っていた。

 その光景を見てサプリは思った。会った事もない聖女という存在に感動した。

 ああ、そうか! 聖女がいれば世界は光で満ちるんだ!

 聖女こそが光で、愛で、正義で、慈悲で情で節度で優しさで情で責任感で勇気なんだ!

 聖女こそが人の美徳そのものなのだ!

 幼くして心が歪んだ少年は、歪んだ自分だけの結論を構築した。

 会った事も見た事もないのに聖女の姿を想像し、理想を投影した。

 きっと何よりも美しいのだろう。いや絶対に、誰よりも尊いはずだ。

 見た目も中身も、この世のどんな存在より穢れなく、素晴らしいに違いない。


 何と勝手な思考だろう。何と自分本位な押し付けだろう。

 しかし彼のその過ちを正せる者はいなかった。

 いや、気付ける者すらいなかった。

 何故なら彼は、仮面の付け方をよく知っていたから。

 サプリが悪魔達から一つだけ学んだのが、仮面の付け方であった。

 自分をより良く見せる。平和的な人間に思わせる。そうした仮面を彼は付けていた。


 そして数年が経ち……これまでの歴史と同じく、魔女が再び現れた。

 過去、ずっとそうだった。

 理屈は誰にも分からないが、魔女と聖女は必ず一つの時代に一人現れる。

 そして魔女を倒した聖女は死体すら残さずに死に、数年経てば新たな魔女が出現するのだ。

 魔女と聖女の出現タイミングは同じではない。いつの時代も絶対に魔女が先で、その後に遅れて聖女が出現する。

 魔女が倒されてから次の魔女が現れるまでの周期は大体、五年ほど。

 たったの五年で平和は崩壊する。

 そしてそれから短くても十五年以上は魔女の時代が続き、そうしてようやく遅れてやって来た聖女が魔女を倒して束の間の平和が世界に齎される。

 何故なら聖女が誕生するのが、魔女の出現と同時期だからだ。

 魔女は何故か最初から大人であるのに対し、聖女は赤子である。

 その聖女が成長するまでは魔女を止められる者は誰もいないので、聖女が成長するまでに要する十五年以上は魔女の天下が続くわけだ。

 魔女のいない平和な期間は僅か五年で、そこから十五年以上も魔女の時代が続き、そしてまた五年ほどの短い平和が訪れる。この世界はずっとそれの繰り返しだ。

 しかし例外はある。それは聖女が魔女討伐の使命を果たせずに死んでしまう場合だ。

 聖女は自傷か魔女の力以外で傷を受けないが、逆に言えばその力があれば殺せてしまう。

 自殺した聖女が過去にいなかったわけではないし、魔女の力を与えられたしもべである魔物に殺されてしまった聖女もいた。魔女との戦いに敗れた聖女もいた。

 その場合は当たり前のように魔女が支配する暗黒の時代が長引き、人は堕落していく。

 一つ前……エルリーゼから見て二つ前の聖女がまさにそのパターンで、彼女は魔女討伐の使命を果たす事も出来ずに魔物によって呆気なく命を散らしてしまった。

 そういう事情があるからこそ人々は聖女を大切にするし、何よりも大事に扱う。


 しかし次代では逆の方向に例外が起こった。

 新たな聖女……エルリーゼは歴代最高の聖女であった。

 僅か五歳にして聖女としての自覚に目覚め、そして十歳の頃には活動を開始していた。

 魔物を駆逐し、人々を救い、過去例を見ない勢いで世界から闇を払った。

 魔女はどこかに姿を消し、目に見えて勢力が衰えた。

 聞けば、恐怖の象徴であるはずの魔女が逆にエルリーゼを恐れて逃げ回っているというではないか。

 今代では魔女の時代はたったの十年しか続かず、そしてエルリーゼが動き始めてからの七年間は驚くほど平和が続いている。

 サプリは、聖女の勇姿を見たいが為に魔物が集まる場所に自ら赴き、そしてエルリーゼの戦いを見続けていた。

 ――完璧だった。

 彼の乏しい想像力など遥かに超えた現実理想がそこにあった。

 サプリの中の勝手な『理想』は砕け散り、そして彼は初めて現実を認識した。

 醜いと思っていた世界はこんなにも美しく、光で溢れている。

 人が悪魔に見えていた。だがそうではない。悪魔にしか見えていなかった自分の『心』こそが闇だった。

 暗い情念を宿し、現実逃避していた瞳には力強い輝きが宿り、心の中に爽やかな風が吹き込む。

 もう、理想しか見えない男はそこにいなかった。

 光で照らされた道の上に、正しく世界を認識した男が一人立っていた。

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