第5話

 ――そうして、私は小説を書き上げた。

 生まれて初めて、これは小説だと自分で思えるものを書いた。何度も書き直して、何度もくじけそうになって、気が付けば、桜の季節は終わっていた。

 だけど、これが私の答え。佐伯に対する、私の答え。私にしか書けないものを、私に書ける精一杯で紙に記した。

 ダッフルバッグに、原稿用紙を詰めた。一緒に、佐伯の小説も。何度も読んで、くたくたになってしまったことを、謝らないと。そして、私の小説を見せないと。

 バッグを肩に掛けて、自転車に乗った。仕事から帰ってきた母親が、ちょうど車から降りてきたところだった。

「あんた――」

 何か言い掛けた母親を、無視。その恨めしげな視線をはねのけ、自転車を漕ぎ出す。

 自転車は、ギコギコと喧しく私を責め立てる。まるで、母親の小言のようだ。進学先はどうするのか、将来のことを考えているのか、小説なんか書いてなんになるのか……

 うるさい、と私はペダルを踏む。午前十時の日差しが、五月の暖まって膨らみ始めた空気が、私を包んでいる。肯定するかのように。すべてが私の味方であるように。どこまででも行けそうな身の軽さを感じながら、私は高速道路を潜り、山の麓の集落へ入る。

 角を左に曲がって、水路に沿って走って――そして、そこに古くて小さな家がある。佐伯の家。そのガレージには車が……ない。

「はぁ、はぁ……また……?」

 また、どこかに出かけているのだろうか。

 自転車を停めて、砂利を踏んで玄関へ。呼び鈴を鳴らしても、家の中でちんとんという音が響く。いつもと音が違う気がした。

「…………」

 バッグが、ずっしりと重くなった気がした。こくり、と小さく唾を飲んだ。また勝手にお邪魔しちゃおうかな、なんて考えが浮かぶ。今日は鍵が掛かっているだろうか、なんて考えが浮かぶ。

 私は、引き戸に手をかける。その引き戸は、前回よりも他人行儀なくらいに、あっけなくするすると開いた。

 そして、目を見開いた。

「      」

 鍵は、掛かっていない。

 そして、玄関にはなにもない。

 佐伯のくたびれたスニーカーも、一回しか使ったことがないと笑っていたスノーボードも、金魚は可哀想だから逃がしてやったと言っていた水槽も、靴箱の脇にどっさりと積まれたままになっていた新聞も。

「……なんで?」

 声が聞こえた。四千年ぶりに人の声を聞いた気がした。私の声だった。

「……なんで?」

 再び、私は呟く。それきり、私は黙った。黙って、ぼうっと空虚な玄関を見ていた。



 いつの間に外に出たのか、分からない。自分が外にいるということが分かったのは、農作業着のおばあさんに声を掛けられたからだった。

「具合の悪かとね?」と訊ねられ、ようやく、言葉の意味と、自分のいる場所を理解するに至った。私は砂利の上に、ぺたりと座り込んでいた。

「……ここ、住んでた人は……?」

 おばあさんはきょとんとしてから、言う。

「引っ越さしたよ。結婚するっち言って。神奈川じゃいろどこじゃいろ、遠かとこさんね」

 いや、それは違う、と私は思う。

 それはまたきっと、佐伯の嘘なのだ。私の感情を――私ですら名前を付けていなかった感情を、ちゃんと殺すための。

 佐伯は河童だ。河童だから、川に戻ったんだ。でも、そのことを私に言い出そうにも、私が小説をちゃんと書けずに、もたもたしていたから、だから伝えられなかったんだ。

 というのは、やっぱり違う、と私は思う。

 やっぱり、実際のところ、佐伯は結婚したのだ。私の知らない女の人と。家族向けの大きな車を買わせるような女の人と。佐伯は、それを言い出せなかったのだ。優しい嘘つきだから。それが、小説家だから。

 だったら、私も悔しいけれど、「その嘘を信じる」という、嘘つきにならなければいけない。でなければ、佐伯の優しさをも一緒くたに払いのけることになってしまう。読まずに捨てるのと同じ、読ませずに燃やすのと同じことになってしまうから。

 そして、私は小説家になることを決める。小説を書いて、それが本になり、話題になれば、それはきっとどこにいても届く。きっと佐伯の耳に届く。私が、佐伯の嘘をちゃんと受け取って、そして自分でも、佐伯と同じくらい優しい嘘吐きになれたということを示す、唯一の方法。本当に優れた作品だと認められれば、それは矢部川の底だろうが筑後川のほとりだろうが、あるいははたまた、神奈川の工業地帯だろうが。どこにでも。

 そこにいて、私に気付いてくれる人がいるはずだから、私はちゃんと、小説を書かなければならない。私の使える優しい嘘を、増やしていかなければならない。

 だから私は、小説を書かなければ、ならないのだ。

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ComeTrue 樹真一 @notizbuch

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