第4話

 ベッドの上に、佐伯の言葉がずっと漂っていた。私は佐伯の言葉の中に浮かんでいた。


――君自身のために――


 私の小説は、私のためには書かれていなかっただろうか?


――その小説をより多くの人に届けるために――


 私の小説は、人の元へ届けられるべきものだっただろうか?

 佐伯の言葉が、全身を反響し続ける。全身の細胞を揺らす波紋は、時折心臓を撫でてビクリと痙攣させる。

 佐伯の言葉は、耳の奥に残ったものだけではない。私の胸の上に置かれた、数十枚に渡る紙の束。それを埋め尽くすのは、何度も書き直された後のある、生々しいまでの佐伯の言葉たち。少し右肩上がりで、ひらがなが角張りすぎている、佐伯の言葉たち。眺めているだけで、嬉しさや悔しさや悲しいや痛みが綯い交ぜになってくる。

 勝手に持ち出したことは、きっとすぐにバレるだろう。だが、佐伯はきっと、そのことを強く怒ったりはしないはずだ。自分の言葉を――盗むほどの欲したのだと、きっと理解できるはずだから。佐伯の言っていた、言葉を届けるための技術――その答えが、ここにあるような気がしてならない。もっとも、持ち出したのとその授業とは、順番がちぐはぐだったけれど。

 佐伯の小説を読んだのは、これが初めてだった。河童の少年の小説。これは、果たして、佐伯の創作なのだろうか。それとも過去――悔恨なのだろうか。

 しかし、その文章の端々ににじみ出ていたのは、紛れもないリアリティだった。私にはなく、佐伯が体得しているもの。言葉を届ける技術。違和感なく、相手の心に自分の心の断片を突き刺す技術。

 その、リアリティに包まれているからこそ……この小説が、本当なのか嘘なのかが分からなくなる。

 とはいえ、もしここに書かれたことが真実、すなわち私小説だとしたら、それはとても嬉しい。だって、私が、私だけが、佐伯の秘密を知っているのだから。お返しに、私の名前の秘密だって、教えてしまいたくなるくらいに。

 一方で、もしこれが嘘だったら? あの夜、月のない河原で言った、「俺、河童なんだよ」という言葉も、嘘と言うことになる。

 だが、それもまた嬉しいではないか。

 だって、それは「私のために」嘘を吐いたことに他ならないのだから。真夜中の橋の下で、小説を燃やすような病んでる感じの女の子を、《普通》という水面に引き上げようとする、健気な嘘。

 その悪意のなさ、悪意のない嘘を操る佐伯は、きっと優しい。嘘吐きの佐伯は優しくて、佐伯の嘘は優しい。それに大きなくくりで言えば、小説だって、嘘なのだ。

 嘘。小説は、嘘だ。私にとっては。じゃあ、その嘘を、優しい嘘を、紙の上に記すことができていただろうか? 私の書くものは、誰かに対して優しくなっていただろうか?

 答えは――否。

 だって、私の書いた小説は、誰にも読まれることなく燃やされていたから。半ば、燃やすために書いていたから。

 燃やした燃え殻は、誰にとっても価値がない。川に流しても、河童に迷惑が掛かるだけ。価値のないものを書き、価値のない灰に変えて、一人、静かに満足していた。

 それではダメなのだ。

 嘘だろうと小説だろうと、それを受け取る相手がいなければ、そこにはなんの価値もない。受け取ってもらわないと、燃やす前も後も、灰と同じなのだ。

 そう、渡さなければならない。受け取ってもらわなければならない。そのことに、どうして今まで――気が付かなかったんだろう。

 呪いだってそうだ、私の呪い――名前の呪いを、父は私に《告げた》。ただ父がそう思っていただけなら、それは呪いにすらならなかったんだ。だけどそれを、私が受け取ってしまったから……呪いは、私を、


――それは、いいんだ。


 今は、考えない。今は、書くだけだ。意識して。なにを? 優しい嘘を。優しい嘘を吐きたい相手を。佐伯のことを。そして、書くのだ。

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