第3話
玄関は、ひんやりとしていた。外より寒いかも知れない。この時期の古い家だと、時々こういうことがある。
丸や三角のタイルで埋め尽くされた玄関の壁を撫でてみると、つるつる、でこぼこが指に気持ちいい。
私は、そのまま数分間玄関に立ち尽くした。心臓は、いつまでたっても、全力疾走の後みたいに苦しいままだ。引き戸のガラス越しに差し込むやけに白い太陽の光が、私の吐き出した息の白さを際立たせる。
やがて、私はもぞもぞと靴を脱ぎ始める。頭のどこかが引き返せと言うけれど、それを無視するように靴を脱いだ。一歩、足を廊下の薄い床板に乗せて、それから、おじゃまします、とカギカッコも付かないくらい小さく呟く。
佐伯の家には、三回くらい来たことがあるが、トイレと台所、それから居間にしか通されたことがない。もっとも、小さな家だから、トイレと台所と居間と、それから、居間から続く寝室兼佐伯の書斎があるだけなのだが。
その書斎こそが、聖域なのだ。
その聖域へのドアを、がっちゃりと開ける。蝶番が最後の警告とばかりにギギギとうめく。それすら無視して、私はついに、佐伯の部屋へと足を踏み入れる。
「…………汚っ」
そこは、汚かった。
初めて家に来た日に見た台所の様子から想像はしてたけれど、狭苦しいベッドはくちゃくちゃで本が乱雑に置かれていてその向かいに小さな机が畳の上に直にどしんと置かれている。その前に残された座布団はくにゃりと潰れていてその右手側に小さなゴミ箱とそのゴミ箱から溢れ出した紙屑――丸めた原稿用紙やティッシュなんかが転がっている。
机の上には、同じような『乱雑』をなんとか開拓して小さな村を作ったように、原稿用紙が置かれていて、部屋の畳よりも広いスペースに見えるその紙の上で、黒光りする万年筆が気持ちよさそうに眠っていた。
私は、その原稿用紙の束を手にして、そして一枚目に綴られた2018年6月11日という日付を撫でる。
そして――
玄関が、からからと開く音が聞こえた。私は、思わず原稿の束を持ってあたふたし――あろうことか、それを自分のバッグに突っ込んでしまった。バッグを担いで、慌てて居間に戻る。なにしろ、玄関から居間までは六歩分しか廊下がない。
素早く、しかし静かに。書斎のドアまで閉めて、振り返ったところで、居間のガラス戸がガラガラと開く。そしてそこには、びくりと体を震わせた佐伯がいた。
「こんにちは」
私は、佐伯自身の動揺で私の動揺を覆い隠せるように、平静を装って挨拶する。佐伯はふーっと細長く息を吐いてから、
「びっくりした……来るのはいいけど、勝手に入るのは、どうかと思うよ……?」
佐伯の至極もっともな苦言に、私が背中に隠していた罪悪感がもぞもぞと蠢き出す。
「ごめんなさい……鍵、開いてたから」
「え、あ、ホントに? それならまぁ……いや、いやいやいや、ダメでしょ、それでも、さすがに」
一瞬納得しかけた佐伯は、その事実に気付いたのか少し笑った。私もつられて笑いながら、もう一度ごめんなさいと謝っておく。
「まぁ、次からは辞めてね……で、今日はどうしたの?」
私はバッグに手を突っ込む。原稿用紙の束が指先に触れて、その冷たさに背中の芯まで凍えそうになる/錯覚。
「…………」
指をくねらせて、その奥、保冷バッグに入れておいたタッパーを取り出す。
「かぶの煮浸し。おばあちゃんから教わったの」
「ああ……ありがとう」
「それから、」紙の感触が、なんだか不愛想だった。「小説……」
原稿用紙の束が、ずもりと曲がる。佐伯が受け取ろうとしたのに、どうしてか少し、引き戻してしまった。
「でも、あんまり完成っぽくない……かも……」
なんとか最後まで書き上げただけで、私はこの小説が完成したとは思えない。燃やしてしまうべきものなんじゃないかと、思ってしまう。
けれど、佐伯は。
「いいんだよ、それで。書き上げることが大事なんだ。そうすることが、小説の上達に繋がっていくんだしさ」
小説の上達。
そう、それが、ネックだった。佐伯の――原稿。それを持っただけで、そこに込められた言葉の質がまるで違うような気がして――、だから、後込みしたのだ。今。だが、佐伯は、それでいいと言う。
なんだか、無性に悔しい。
「……上達したいとは、思ってないけど」
「でも、作家になりたいんでしょ?」
「…………」
「だったら、上達すべきだよ。小説の上手下手は、伝えることができるかどうかだ。考えてること全部伝えるなんてどだい無理なんだけど……でも、1%伝わるものを、2%に上げることはできるはずだし、やるべきだ」
「どうして?」
「せっかく書いた小説だからだよ」
至極まじめな顔で、佐伯は言った。私は、その言葉に磔にされた。
「書かれた以上、読まれるべき価値はある。きっとある。それを、小説の技術なんていう表面的なもので無碍にしてしまうのは、本当にもったいない。せっかく書いたのに、せっかく自分の内にあるものを外へ解放してあげたのに」
私は、呼吸の仕方を思い出せない。佐伯が言う。
「どんな理由で書き始めたにせよ、小説を書けることは才能だ。その才能を自分のために使わなきゃ、持っている意味がない。かなえちゃん――」
かなえというのは、私の名前。私に刻まれた、呪い。
その呪いを、打ち消すかのように、佐伯。
「――君は、君自身のために書くべきだ。そして、その小説をより多くの人に届けるために、その技術を、磨き続けるべきだ」
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