第2話
がしゃん、と自転車のスタンドをおろした。砂利の上に注意深く自転車を立たせて、さっきよりもずいぶん重くなった気がするバッグを担いで玄関まで歩く。砂利をじゃりじゃり踏みながら玄関まで歩いて、呼び鈴を鳴らした。インターフォンではなく、本当に呼び鈴。
ちんとん、と家の中で鳴っているのが聞こえる。しかし、続けて聞こえてくるはずのばたばたという足音がない。おかしい。今日は第三日曜日だから、佐伯は休みのはず。休みなら、だいたい家の中にいるはず。本を読んでたとか映画を見てたとか言うけど、本当は――小説を書きながら。
「…………あれ?」
古い家の、裏側に回り込む。アルミホイルみたいに薄っぺらい車庫には、佐伯の車が……停まってなかった。一人暮らしのくせに、家族で乗るような、背が高くて長くてピカピカのグレーの車。どこかへ出かけているらしい。河童なのに。河童が休みの日、大きな車でドライブ。イオンモールにでも出かけたんだろうか。高速道路を使うんだろうか。そんな、どうでもいい妄想が頭の中に浮かんでは消えていく。
はぁ、とため息を吐いて、私は玄関の前、セメントが打たれた軒先に腰掛ける。空気は暖かいが、セメントは冷たい。お尻がひんやりとしてくる。佐伯がどこへ出かけたのかは分からないが、お互いに連絡先を知らないのは、こういう時不便だなと思った。私は、携帯を持たせて貰っていなかった。学校でも駅でも道端でも、私は他の人より三十年は昔の生活を強いられているのだ。
玄関の前に無理矢理押し込んでひしゃげてしまったような小さな庭に、梅の樹が佇んでいる。一輪だけ、花が咲いていた。太陽の光に眩しそうに顔を背けながら。
お尻が冷えたので、立ち上がる。一旦帰ろうかと思い、けれどそれでは母親と鉢合わせしかねないことを思い出して、靴のつま先を見た。それから、何の気なしに、アルミ製の引き戸に手をかける。防犯という意味では、山から迷い込んだ猪だって簡単に中へ入れそうなその引き戸は――なんと、からからとあっけなく開いた。
「…………」
いやいやヤバいでしょ、と私は思う。なにがヤバいんだろう、と私は思う。
今までも、中に入ったことはある。あるけれど……勝手に入っていいものだろうか。
だが、考えてみれば、鍵をかけ忘れていた佐伯がいけないのだ。確かに田舎で、治安がいいと言える場所だけれど、だからといって、これは不用心すぎる。
そう、用心のためだ。誰かが訪ねてきた時にも、代わりに対応する人がいた方がいい。クロネコヤマトとか来たら、困らせてしまうわけだし。
そう、自分に言い聞かせる。言い聞かせると言うことを、意識的に行う。そうして、私は佐伯の家へと入る。
●
最初に佐伯の家にやってきたとき、狭くて汚いと正直に言ってしまった。暖房もなくて、冷蔵庫の方が暖かいかも知れないとすら思ったくらいだ。廊下に野菜を置いてても、数日は持ちそうだな、なんて考えた。
「一時的な住処だから」
と言って、佐伯は上着を脱ごうともしない。セーターとかではなく、もこもこのダウンジャケット。私も脱ぎかけていたダッフルコートのボタンを、もう一度閉めた。
「……河童も、寒いの?」
言うと、佐伯は振り返る。きょとんとしている、というのはこういう表情を言うんだろうか。それから、ややあって、納得したように頷きながら答える。
「そうか、あの日に言ってたか……いやぁ、バレたのかと思って、一瞬固まったよ、はっは」わざとらしい笑いだと、私は思う。「まあ河童だってね、寒いとやっぱり寒いよ。魚だって、寒くなると動きが鈍くなるでしょ?」
そんな理屈があるかと思いながら、制服のローファーを脱いだ。六歩で終わってしまう短い廊下の先に、真四角に区切られた部屋。その中央には、部屋全部を埋め尽くしてしまうのではないかと思えるような、こたつが鎮座していた。こたつが大きいのではなく、部屋が狭いのだ。
思ったよりも、本がなかった。まったく、本がなかった。
「本当に、小説書いてるの?」
私が訊ねる。佐伯ははっはとガスみたいに笑う。
「本がないからでしょ? さっきも言ったけど、一時的な場所だし……それに、あんまり本は持たないようにしてるんだ」
「……読んだ本はどうしてるの?」
「売ってるよ。次の持ち主へ、バトンを渡す」
不思議な節を付けて、佐伯が言った。
「ブックオフに?」「だいたいね」「川にもブックオフがあるの?」
佐伯は、くしゃみでもするように笑い出した。
「あはは……川の中にはないよ。濡れたら、読めないだろ?」「…………」「もちろん、新刊を扱う本屋もない。だから本は陸に上がって買うんだ。僕は、本を読むから陸で生活しているとも言える」
「でも、川の中ではどうやって本の情報を得るの?」
「本当にいい作品だったら、その噂は川の中にも伝わってくるのさ。本当にいい作品が、時代を超えて読まれるようにね。時代に比べれば、水面なんて大した境界にならない」
佐伯は嬉しそうに喋る。今し方閃いたジョークを口にするように。
「……水の中だと濡れるから、本を持たない?」
「はは、まさか、」佐伯は肩をすくめる。「本棚がいくつあっても足りないだろう? 本当に必要な、道標になる本だけ、手元にあればいい」
その『道標』たちも見当たらないから、聞いたのだけど。
私はこれ以上煙に巻かれるのが嫌で、首を巡らせる。狭い部屋の向こうには、これまた狭い台所が繋がっている。そこに据えられたステンレスの流し台の中には、カップラーメンの器やコンビニ弁当の空、それに空き缶やペットボトルがいくつも放り込まれていた。
「ご飯、あれ?」
そういえば、初めて遭った時もコンビニ袋をぶら下げていた。
「……ああ、仕事で時間が不規則だから……あそこの交差点のより、ちょっと行ったとこの方が、広くて品揃えがいいんだ。知ってる?」
知らない。
「こんなのばっかり食べてたら、体壊す」
「はは、それに関しては、反論できないかな……昔より太ったし……」
「……それに、」私は、言う。
「それに?」
「こんなの、文学的じゃない。文学を書くんだったら、食べ物を書かなきゃいけない」
佐伯は、今度こそきょとんとした。豆鉄砲が鳩を食ったような顔。それから、ゆっくりと租借して飲み込むように、答える。
「……面白い視点だ」
「そう? 私は、そう思ってる」
「なるほど……でも、俺、料理は……」
「できないの?」
「……缶切り使えるくらいだね」
だから、食事がコンビニばかりなのかと納得する。そして私は、どうしてだか言ってしまう。
「じゃあ、研究が必要でしょ。作ってあげる。それを食べるところから、始めましょう」
自分でも、なんだかお姉さんぶった物言いだと思う。だけど、普段の食事があまりにもあまりだから同情したなんて、ちょっと言えなかったのだ。
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