後編
その日、いつもの場所に少女の姿は無かった。代わりに、猫がいつもは少女がいる位置に座っている。
今まで少女と猫がセットでなかった日はなかったので、珍しいこともあるものだと思いながら僕はあぐらをかいて座る。
その動きに合わせるように、猫がぴょんっと飛び乗ってきた。
なぁなぁ、と何か言いたげに体をぐいーっと大きく逸らして鳴く猫。
残念ながら僕は猫語について詳しくないが、少女について何か伝えようとしてくれているのだろうか。
フーセンガムをもしゃもしゃ噛みながら、僕は猫の頭を撫でてやる。
ごろごろと一定のリズムを刻む小気味よい音を聞きながら、ガムを膨らませる練習をする僕。
昨日よりほんの少し上手くなったような気がするし、気のせいの様な気もする。
にゃあお。
猫の一鳴きで、僕はハッと我に返る。
気が付けばだいぶ時間が経っていたようで、いつもならとっくに帰っているような時間だ。
辺りはすっかり暗くなっていて、なんとかく雲の様子も違って見える。
「キミも早く帰るんだよ」
ポッ、ポッ、とアスファルトに水滴の跡が浮かびだしたのを見て、僕は猫に一言告げる。
猫は言葉の意味を知ってか知らずか、ナァ、と一鳴きして去っていった。
この雨は勢いが増してきそうだ、急いで帰らないと。
前日から降り続く大雨。
ニュースでは何年かに一度の大雨になるだろうなんて予報も聞こえてくる。
だというのに僕は妙な胸騒ぎがして、いつもの河川敷へと脚を運んでいる。
こんな大雨の中、こんな場所へ来るのはバカのする事だ。
これで徒労に終われば本当のバカだが、今は徒労であって欲しい。
「うっ……!?」
突然、背中に強い衝撃を受け、僕は大きくよろめかされた。
僕の手を離れた傘が氾濫しかけの川へと吸い込まれていく。
まぁ、あってもなくても大差のない状況だったので気にすることでもないが。
「ご、ごめんなさ……あっ!」
激しい雨音の中でもはっきりと耳に響いてくる聞きなれた声。
びしょびしょに濡れて耳が萎れた姿はまるで元気の無い猫の様だ。
「なんでこんな所に……じゃない、急がないと!」
何かに焦り大慌てな少女。
僕の前から走り去ろうとする少女の腕を、僕はガッと掴み制する。
いつもならするりと避けられてしまうのに、今日はあっさりと捕まった。
それだけ余裕がないということだろう。
「離してっ!」
全力で僕の腕から逃れようとする少女。
その爪が僕の手に食い込み赤いラインを作る。
いつもはこうして捕まえることなんてしないが、今日の僕はこれで怯むわけにはいかない。
「あの子が心配なら、僕が行ってくる!キミは家に帰るんだ!」
こんな声出せたのか、と自分でも驚くような大きな声。
「……っ」
少女も同じように思ったのか、僕の剣幕にわずかにたじろいだ。
が、すぐにキッと僕を睨み付けると逃げ出そうと暴れだす。
どうやら説得は無理らしい、ならば選択肢は一つしかない。
掴んでいた腕を緩め少女を解放する。
「危なくなったら逃げるんだよ?」
僕の言葉に少女がコクリと頷くのを見て、僕は少女と一緒に走り出す。
河川敷は大分河に侵攻されているが、それでもまだ何とか通ることは可能なレベルであり、そこに逃げ遅れた猫がいたとしてもおかしくない状況だ。
臆することなく河川敷を降りていった少女に遅れないよう、僕も急いで少女を追う。
「猫ーっ!どこなの、猫ーっ!!」
どうやらあの猫、名前らしい名前を付けられていなかったらしい。
この子らしいと言えばこの子らしいのだが、こういう場合少々不便だ。
などと冷静に考えている場合でもなく。
「猫ー!どこだーっ!」
僕も少女に習い、大声で猫を呼ぶ。
雨音にかき消されないよう、お腹の底から声を張り上げて。
「……くっ」
そんな僕らをあざ笑うように雨は勢いを増し、河川敷もどんどん危険度を増していく。
やはり無理にでも少女を連れ帰った方がいいかもしれない。
そんな考えが一瞬よぎった所で、
「……!」
か細い鳴き声が、確かに聞こえた。
僕と少女はその声を頼りに辺りを見回す。
「いたっ!」
河川敷と川の際、流れに飲まれた大岩の上で、雨に濡れて細くなった猫が震えているのが見えた。
それを見てすぐにでも飛びつこうとする少女を、僕は何とか押さえつける。
無策に飛び込めば、まず助からない流れ。
しかし、もちろんこのまま放っておくと今度は猫が危ないわけで。
それはつまり、少女も危ないと同義なわけだ。
僕は雨を吸ってすっかり重くなった鞄の中身をぶちまけると、何か使えそうなものがないか探してみた。
大半は雑多なノート類に文房具、とてもじゃないが使えそうなものは……いや、そうか
「少し待って!」
「……?」
返答次第では今まさに飛び込もうとしている少女を呼び止め、鞄を肩にかける時に使う紐の部分、その片方を外し一本の帯のようにする。
こうすれば簡易的な救命うきわぐらいにはなるだろう。
「これに捕まって!」
言葉が通じているかなんて知ったこっちゃないが、僕は一言呼び掛けてからそれを猫の方へと投げる。
猫に当たらないように調整して投げたのが功を奏し、流れがうまい具合に鞄を岩の窪みへ引っかかけてくれた。
ちらりと少女の方を見ると、固唾を飲んで見守ってくれている姿が見える。
猫が鞄に爪を引っ掻けるのを確認すると、僕は鞄を手繰り寄せた。
「よし……!」
流れが鞄ごと猫を引っ張り、水を吸った鞄の重みが僕を川へと引きずり込もうとする。
こういう時が、もっと運動をしておけばよかったと反省する瞬間なのか。
ほんの少しでいいから、助力が欲しい。
そんなことを思った瞬間、ふっと僕の体が軽くなった。
「ふんぎぎ……」
少女が僕の腰へ手を回し、力を貸している。
猫も必死に鞄に爪を立て、流れに逆らっている。
ここで僕が頑張らなければ、男が廃るというものではないか。
「……っ!」
やっとの思いで流れから解放されたかと思うと、鞄と猫が勢いよく宙を舞った。
あっ、と息をのんだ僕達だったがそこは濡れても猫、シュタッと華麗に着地を決める。
とりあえず大きな心配はないらしい。
僕らは急いで河川敷を離れ、とりあえず雨宿りできる場所へと向かう。
本当は早く家へと帰ったほうがいいのだろうが、クタクタですぐには動く気力が沸かなかった。
「へっくし!」
「……くしゅんっ」
僕と少女と猫、二人と一匹のくしゃみが。
これだけ濡れればくしゃみも出るだろう、と身を案ずるために少女の方を見て僕はハッとした。
ずぶ濡れになったことで露わとなった身体のライン。
華奢なほうだと思っていたのだが、その小ささに似合わず意外としっかり出るとこが出ており、寸胴に見えていたのはパーカーの丈のせいだったらしい。
「……」
気の抜けていた僕の目が、くりくりと丸い瞳の視線とぶつかる。
それも四つ、四つだ。
これはヤバイ、と僕はギュッと目を瞑る。
「……ぷっ、くすくすっ」
予想とまったく違う少女の反応。
まさかの反応に今度は僕が目を丸くした。
いつもならここで飛び掛かってくるはずの猫も、今は濡れた身体を乾かすためにぶるぶると身を震わせている。
これからどうしたものか、などと考え始めたタイミングで、
「……あ、止んだ」
あれほど猛威を奮っていた雨がピタリと止んだ。
ほんの少し、本当にほんの少しだけ、残念という気持ちが湧く。
「……」
気付くと少女の視線がこちらへ向いていた。
何か言葉を待つような、そんな視線。
だから僕は出来る限りの笑顔を作って、
「また、明日」
そう、少女に伝える。
そんな僕の言葉に少女は、初めて見せる無邪気な笑みで答えた。
「うん、また明日」
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