第6話

 千恵が、部屋を出ていく。ドアがまぶんと閉まる音を、私はじっと聞くことしかできない。体が動かない。心臓しか動かない。まばたきすらできていたか分からない。そして気が付くと、部屋の中が暗くなっていた。部屋だけじゃない、部屋の外も、暗くなっていた。夜更かしな蝉が、じじと鳴くのが聞こえた。顔が、べたべたに汚れている気がする。口の周りを舌先で触れてみると、塩辛い。

 不意に、全身がびくりと震えた。がたがたと震える足に力がこもる。脳の指令が、ようやく全身の筋肉に伝わったようだった。

 床に落ちていた宿題のプリントを踏んづけ、転びそうになる。学習机に置きっぱなしにしていたトートバッグを掴む。中には、スマホと本しか入っていない。図書館で借りた、民族学の本。河童のところしか読んでいない、それでも借りてまで、何度も読んでしまった本。

 部屋のドアを開けて、走る。階段を駆け下りて、母親と弟を無視して、サンダルをつっかけた。門のこっち側に置いてある自転車を引っ張り出して、ギッチャギッチャと走り出す。ライトがぎゅーぎゅーとうなっているけれど、全然暗い。家の前の細い道を抜けて通学路の少し広い道を渡って、狭くて暗い国道に飛び出してきた。生ぬるい風が、私を押し留めようと正面からぶつかってくる。それでも足をゆるめない。

 向かいから睨みつけるようにライトを光らせて走るトラックが、熱帯夜そのものをぶつけるように走り去っていく。臭い排気ガスの匂い。ガジガジと泣き喚く自転車が、がつごつと側溝の蓋の段差をいちいち報告してくる。それでも、私は足をゆるめない。不思議と、道は覚えていた。

 坂を上りきって、そこには重油のような黒い川が横たわっている。その土手沿いに自転車を走らせて、橋を渡り、夜間進入禁止のバーを、自転車を押してくぐる。そして、昨日の駐車場に私はたどり着く。どこまでが地面でどこからが川なのか分からないくらい、暗い。

 自転車のスタンドを下ろす。がちゃんという音が、広々したはずの河川敷にけたたましく鳴り響いた。暗い。そろそろと私は歩く。駐車場には街灯なんてない。夜は使われていないのだ。

 川に向かって歩くうち、段差をつま先が蹴る。あっと思った時には、私はバッグを放り出して遊歩道に転んでいた。目の粗いヤスリみたいなアスファルトで、手のひらをすりむいたみたいで痛い。その痛みを我慢するには、酸素がまるで足りない。涙がじわりと出てきた。

「千恵――――――ッ!!」

 返事はない。そして、後頭部をバットで殴りつけられるくらいハッキリと、私は悟った。

 河童だというのは、でたらめな作り話なのだ。背中の固い甲羅は、きっとなにかの奇形で、そのせいで母親にギャクタイされていたのだ。そして、逃げ出して祖父母の家に――私のすむ町へ、やってきた。

 それなのに、現実逃避のための無邪気な話を、私が頭ごなしに否定した。

 だから、千恵は、ここで、命を絶ったのだ。

 私は、その後を追うことしかできない。千恵の言葉を信じなかった罪を、そうして償うしかない。いや、本当は、そんなことはどうでもよくて。

 千恵がいなくなった世界に生き続ける意味を、私は見出せない。

「千恵」

 ずるずると泣きながら、私はそろそろと川に近づいていく。アスファルトがコンクリートに変わり、そして傾斜がつく。この先にはテトラポットがあったはずだ。今は、それがあるのかも見えないくらいに暗い。

「千恵」

 そろそろと歩みを進めていると、サンダルを履いたつま先が、人間の体温みたいにぬるい水に触れる。それが千恵の体温のような気がして、私は全身がぶるりと震える。怖い。でも、早くこのなま暖かい水に全身を包まれたい。

「千恵」

 水がふくらはぎを、膝を、ハーフパンツを、腰を、Tシャツを、肩を濡らす。泥臭い水が顎の先に当たる。息を大きく吸い込もうとして、不意に、ざぶんと全身が沈んだ。足下に断固としてあったテトラポットがなくなっていた。息の代わりに吸い込んだ水が、あっという間に私をパニックに陥れていた。元々が透き通った水でもないし、それに月も出てないような真っ暗闇だ。上下左右なんて感覚はとっくになくなって、私は自分の吐き出した泡を掴むように、懸命にもがいていた。苦しい。体のあちこちから、力が抜け落ちていく。スポンジが水を吸うように、ずぶずぶと重くなっていく。苦しい。目の前に巨大な黒い影が落ちてきて、そのあまりの重さに押し潰されていくような苦しさ。

 千恵。

 千恵は、この苦しみの中に死んでいったんだろうか。私のせいで。私が、千恵のことをちゃんと助けなかったから。守ろうとしなかったから。どうして守らなかったんだろう。どうして突き放してしまったんだろう。信じるだけで、守ることができたはずなのに。

 千恵。

 後悔するしかない。後悔の中に溺れるしかない。私が千恵を守らなかったことは確かで、千恵をこの苦しみに沈めたのは、私なのだ。その罪を償うしかない。

 千恵。

 でも、本当は――こうして千恵と同じ川に沈んでいくことで、私はある意味で、千恵と一緒になることができるんじゃないかとすら思っていたのだ。

(千恵――!)

 そして、私の体を誰かが抱き締めた。千恵。目の前に千恵がいる。真っ暗な川底で見えるはずがないのに、はっきりとそこに千恵がいることを私は理解する。だって、千恵は私のことをしっかりと抱き締めてくれていたから。

 私は、千恵を抱き締め返す。ああ、このまま一緒に、水の中で息をすべて吐き尽くしてしまいたい。そう思って開いた唇に、千恵の唇が、吸い着くようにぴたりと合わさった。

 残り少ない血液が、頭に集まる。顔が熱い、涙が出てきて、川に流れる。私の初めてのキスを、千恵に捧げられた。その悦びだけで、どうにかなってしまいそう。もう、本当に、死んでもいい。


――だめ。


 そう、千恵の声が聞こえた。それは声を含んだ空気で、思い切り私の中に吹き込まれる、千恵の匂いがする空気。酸素。全身がビクリと震えたのは、私が千恵とのキスに感じてしまったからなのか、あるいは、なくなっていた酸素が送り込まれたからなのか。



 目を開けると、ぼやけた視界の向こうで赤い光がちかちかと回っている。それを私は、救急車だとすぐに分かった。

 え?

 私は、体を起こす。途端、胸の奥が焼け付いているような痛みを感じ、そして、肺が爆発するように咳込んだ。

 大丈夫か、という声が聞こえる。答えられない。咳が苦しい。全身を濡らす泥臭い水が、私が川底で体験したことは本当だと教えてくれる。


――だめ。


 死ぬなと言われたことも、きっと本当だ。そして、千恵が河童と人間のあいのこだということも、きっと。

 死ななくてよかった、とは思わなかった。流れてくる涙が、ずぶぬれの体に溶けていく。川に沈んで、水になるべきだった。水の世界と一つになるべきだった。この川から、どこかへ泳ぎ去ってしまった千恵と一つになるには、それしかないはずだった。

「千恵……っ!」

 でも、千恵は私を助け、私が死ぬことを「だめ」だと言った。千恵になにもしてあげられなかった私が、最後に千恵がくれたキスと空気、そして「だめ」という言葉を受け取る資格が、あるのだろうか。



 夏休みが終わった。

 千恵は、転校したということになっていた。

 周囲では、自殺だという噂が絶えなかった。

 それは違うことを、私ははっきりと知っている。だから、私は千恵のためにするべきことがある。千恵に擦り付けられた不名誉を、私が拭っていかなければならない。それが、私が千恵にしてあげられることの、最後に残ったたった一つだからだ。


                終

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千恵を沈めないために 樹真一 @notizbuch

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