第5話
だから、今私が千恵の背中をずっと見ていることも、バレているんじゃないかと思う。いや、きっとバレているはずだ。千恵は私よりも、きっと視線に敏感なはずだ。
そして、その私の視線を振り払おうとするように、私を置いて行こうとでもするように、全力で自転車を漕ぎ続けている。私が自転車を漕ぐのをやめたら、きっと千恵は私の知らないところまで走り去ってしまうのだろう。それはいやだ、千恵、私は頭が真っ白になりそうになりながら、それでも千恵を追いかける。
狭い道に面した小学校の横を通り過ぎる。夏休みなのに、誰も校庭で遊んではいない。暑すぎるからだ、こんな炎天下では、立っているだけで汗だくになってしまう。実際、私のハーフパンツもその下の下着も、汗でぐしょぐしょになっている。ぶつかってくる風はドライヤーみたいで、汗は吹き飛ぶこともなく、体とシャツにしがみつき続ける。もう、汗が出ているという感覚はない。自分がそのまま、熱で溶けだしているような気がしてくる。バターかなにかになったように、たらたらと。
やがて、狭い道は上り坂になる。道幅は少し広くなったけれど、日陰が完全になくなる。なんだか笑えてくる、ここまでくると。
千恵は、しかしペースが落ちるどころか、グイグイと登りはじめる。マジかよ。私だって立ち漕ぎしているのに、全然追いつけない。このまま太陽まで昇っていってしまいそうな千恵の背中を見つめて、ほとんど息もできないような勢いで自転車を漕ぐ。坂を上っているはずなのに、深海に向かって潜っているような気持ちになった。
そして、
不意に、
ばっと目の前が開けて、
青々と茂った草と、その向こうに太陽の光をキラキラと反射する、とんでもなく広い水面が現れた。
――う、海?
急ブレーキで止まって、私は声にならない声で言う。千恵は、笑う。
――ちがうよ、川。筑後川。
千恵も、息が上がっている。でも、私なんかよりもずっと楽そうな顔をしている。
行くよ、と言って千恵は再び自転車に跨がる。私は泣きそうになりながら、でも千恵の前では絶対に泣きたくなかった。自転車をこぎ始める。
私を気遣っているのか、今までよりゆっくりしたスピードで、橋を渡る。車が走っていくと、橋全体が揺れているのを感じる。このまま橋が壊れて川に落ちたらどうなるんだろう。死ぬのだろうか。
――こっち。
橋を渡り終えて、左に折れる。道が分かれていて、細く延びた下り坂が、河川敷の駐車場に繋がっている。焼けたフライパンみたいになった駐車場。黒いはずのアスファルトが真っ白に見えるくらい強い日差しの下、黒銀色の車が一台だけ、なにかを見守るようにぽつりと停まっている。その一台だけの車が、辛うじてこの駐車場が現実と陸続きのところにあるのだと訴えているように思えた。
千恵は、駐車場を横切って遊歩道とぶつかるあたりで、自転車を降りる。スタンドを立てて川縁へと歩き出す。私もそれを追いかける。喉がからからで、声が出ない。
遊歩道を越えると、そこはもう川縁だ。水の侵略を阻むように、テトラポットがごつごつと置かれている。カニが、水の兵隊のように陸地を偵察にやってきていた。
――海、近いの?
――まだ、結構先だよ。
千恵が笑う。
川縁には、少し泥臭い川の匂いが、巨人の吐いた息みたいに生ぬるく、吹き付けてくる。
――お父さんは、この川にいるんだって。
千恵が言った。お父さん。水死体? いや、違う、そう、
――……河童、の……?
こくり、と千恵は頷いた。私の方は、まるで見ていない。取り憑かれたように、水面をじっと睨み続けている。
――……お父さんに、会いたい?
私は言ってから、バカなことを言ったと後悔する。千恵が、驚いたように振り返る。そんなこと考えたこともなかった、とでも言いたげな表情で。しまった。
――う~ん……どうしよっかなぁ……
千恵は言いながら、川に向き直った。私から、目をそらした。ふらり、と千恵の腕が揺れる。それがまるで、今にも千恵が川へ飛び込もうとしているように見えて、私は反射的に、千恵の左腕を掴んでしまっていた。
長袖の腕。その袖の下には、いくつもの火傷の跡がある。河童だから肌が弱くて、ちょっとしたことで火傷してしまうと、千恵は言っていた。私は、その火傷の跡に舌を這わせたことを思い出す。
千恵は、私を見ようともしない。私は、腕を掴んでいることしかできない。抱きしめるべきなのだろうか。けれどそうさせないとばかりに、千恵の背中は固い。
ぼんやりと寝ぼけている耳に、チャイムの音が聞こえてくる。私は泥みたいな川の底に沈んだ夢から、ゆっくりと目覚めていく。
目覚まし時計は、もう昼の十二時を表示していた。両親は仕事に行ったのだろう。昨日の夜、千恵と一言も交わさずに帰ってきて、そのまま眠っていた私は、自分の格好にため息をつく。
もう一度、チャイムの音。観念したように、ベッドを降りる。千恵だったらどうしよう、どんな顔をして会えばいいんだろう。考えをまとめるよりも先に、私の体はのっそりとした動きで、玄関を開けていた。
そこには、千恵がいる。眠そうな、泣きはらしたような、赤い目。それだけで私は、泣きそうになってしまう。
――……上がって。
――おじゃまします。
いつものやりとり。でも、今日はまるでプラモデルみたいに無機質だ。
私の部屋で、千恵と私は座る。どちらからともなく始まるはずの会話が、まるで始まらない。千恵は、ふあ、とあくびをする。寝ていないのだろうか。私は、腰から下に沈殿しているような眠気が残っている。あくびじゃ消えないような類の眠気。
――お父さん、探しに行くね。
不意に、千恵が言った。私は、しばらく反応できなかった。
――…………え?
――お父さん、探しに行く。
千恵は繰り返す。私は問い返す。
――……川、に?
――そう。一人で。
一人で。先に言われた。崖っぷちから突き落とされたような気持ちになった。
――……うそ、でしょ?
私の口が、勝手なことを口走る。
――本当に、お父さんが見つかると思ってるの?
川で。千恵は、きょとんとして私を見ている。そして悲しそうに、眉間をくしゃり縮める。
――本当なんだけどなぁ……
はっとした時には、千恵はもう立ち上がっている。私は、すがりつくように手を差し出して、それをするりと避ける千恵。魚のような身のこなしだった。
――とりあえず、言っておこうと思って。じゃ、ね……
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