第4話

 太陽に熱せられてパンパンに膨らんだ午後二時の空気は、夏の匂いと排気ガスの匂いを巻き込んで私の顔を叩く。汗が額からだらだらと流れ落ちてきて、思わず目をしかめてしまう。それでも目を薄く開けている理由は二つで、一つは私が今自転車に乗っているから、そしてもう一つは、同じように自転車を漕いで私の前を走っている、千恵を見逃さないようにするためだ。

 長袖の、秋物みたいなシャツの奥にあるはずの、甲羅を包んだ皮膚を思い出す。その上を高速道路みたいに無表情を装って走る、白いブラのひもを思い出す。汗の流れる音すら聞こえそうな、体育倉庫を思い出す。

 夏休みに入ってから、千恵は私の家にほとんど毎日やってくるようになっていた。おじいちゃんの家にはエアコンがないから、と言って。

 でも本当は、私が誰かに言い触らさないかを監視しにきているんじゃないかと思っていた。だから、そんなつもりがないことを全身でアピールするように、エアコンのきいた部屋に千恵を招き入れ、二人でだらだらと過ごす。そうやって何日かが過ぎたあたりで、私のことを疑っているのではと疑い続けることに疲れてしまい、それからはだらだらと過ごすためだけにだらだら過ごすような、最高の夏休みを満喫する私たちだった。

 コンビニで繋いだ手は、今でも繋がっている。両親は働きに出ているから、昼間はずっと二人で私の部屋にこもり、時々千恵に背中を見せてもらう。だんだん服を脱ぐのも慣れてきたのか、千恵は笑いながら自分ばかりずるい、と私を裸にさせた。妙にドキドキして身体が火照って、その晩はなかなか眠れなかった。

 そして、今日もまた宿題をいい加減に埋めながらテレビでも眺めて一日を終えるのだろうと思っていると、千恵が唐突に、行きたいところがあると言い出した。


――どこ行くの?


――着いてきて。


 言われて、私は自転車をギッギギッギ漕ぐ。ギアとチェーンが軋む音がうるさかったのか、車が私のすれすれを通り抜けていく。ジャワジャワジャワジャワと蝉がうるさい。汗が目に入り、染みる。むっとするような草の匂いが、排気ガスと混じる。いや、それは私が吐き出した息なのかも知れない。それくらい、喉がぜいぜいうるさいくらい、私は全力で自転車を漕いでいる。

 前を走る千恵は、それでも余裕があるように見えてならない。私のよりも酷い状態になってるチェーンを、ギジギジギジギジと泣かせながら、それでも私よりすいすいと前に進んでいく。

 なるほど、河童は――河童と人間のあいのこは、本当に力が強いのかも知れない。



「なんしょっと、こんかとこで?」

 そう声をかけてきたのは、美優だった。部活帰りなのか、体操着姿のままだった。大げさなくらいに大きな肩掛けバッグの中に、きっと中学校のセーラー服が入っているんだろう。私は、手元の本をさりげなく閉じながら、そう考えた。

――本読んでるの?

 美優が言うので、うん、と答える。ここが市の図書館だからといって、座って本を読んでいる方が少数派だ。閲覧机を使っているのは、大抵がノートやプリントを広げた学生ばかりだ。

――なんの本?

――これ。

 表紙を見て、美優はぶふっと笑い出す。

――なんで民族学とか読んでるの? 昭和かよ!

 ケラケラと笑いながら美優が言う。昭和かどうかは分からないけれど、河童のことを調べていると民族学に行き着くのだ。やれ、相撲が得意で力が強いとか、鉄を嫌っているとか、内臓が苦手だとか。焼き肉にでも連れて行ってトングでホルモンでも焼いてあげたらどんなリアクションをするんだろう。なんて。

――てか、そんな本読んでていいのー? 宿題終わってるんですかねー?

――半分くらいは終わってる、なんか、いつの間にか。

――は、マジ!?

 からかうつもりだった美優は真顔になってしまう。

――マジかー、私もやんなきゃー。

 宿題が進むのは、千恵と一緒に部屋に閉じこもってても暇だからだ。千恵も、同じくらいかあるいは私よりも進んでいると思う。千恵。


――ねぇ、美優。


――なに?

――ギャクタイって、本当にあると思う?

 美優は、きょとんとした様子で私を見てくる。ああ、明らかに説明不足だった、と私が補足しようとしたその時、美優がハッとした顔をする。

――なにか、あったの?

――え?

 真面目な顔で、バッグをどすんと床に落とす美優。周囲の非難の視線が一斉に降ってくるけれど、美優にはそれに気が付く余裕もないようだった。

――なんかあるなら、絶対私に言ってね?

――え、あ、うん。その……

――友達、だからさ!

――……うん。大丈夫、気にしないで。

 私は、美優を振り払うように立ち上がった。読み差しだったけれど、民族学の本を棚に戻す。美優は、じっと私のことを見ている。気がする。視線を感じたのなんて初めてだったので、ぞわぞわとするのと同時に、千恵はこんな想いをしていたのか、させてしまったのかと、私は少し、申し訳ない気持ちになる。千恵。

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