第3話
そして、最初のためらいとは打って変わって、ばっと、本当に脱ぎ捨てるというような勢いで、ブラウスを脱いでしまった。白い肌と、それよりもずっと白いブラジャー。控えめな胸に、私はどきりとする。
千恵は、ブラウスをクルクルと腕に巻き付けるように丸めて、それからくるりと背中を向けた。その背中は――なめらかな曲線、ではなかった。
――なに、これ……どうしたの?
それは、なんと言えばいいのか。
ごつごつした骨?のようなものが背中全面を押し上げているような、痛々しいものだった。痩せているとか、肋が浮いているとかじゃ、ない。もっと、亀の甲羅みたいななにかが、内側から押し上げてきている。背中の皮膚が、痛々しく張っている。
――触ってみて。
――え、痛くないの……?
いいから、と千恵が急かす。私は宙ぶらりんになっていた腕に動けと命令して、千恵の震えがうつったように震える手で、そっと千恵の背中に触れた。
私の苦手な人間の皮膚の温度と、その皮膚の向こうに感じる、ごつごつした感触。手の甲を触った時のような、この向こうに固いものがあると訴えてくる感触。
――それね、甲羅。
千恵が言う。
――こう、ら……?
マジで? 甲羅っぽいと思ったけど、本当に、甲羅? 人間に?
――私ね、河童と人間のあいのこなの。
河童。千恵がそう言ったように聞こえた。けれど、本当にそう聞こえたのだろうか。自信がない。耳が破裂しそうなくらい心臓がごうごうと音を立てている。いつしか指先だけが触れていたはずの私の手は、千恵の背中の皮膚と一体になってしまったようにぴったりと吸い付いてしまっている。
震えているのが分かる。だが、それが果たして、千恵が震えているのか私が震えているのかも分からない。私が震えているとして、その震えている理由もまた、分からない。触れているべきではないと強く思う。これ以上触れるべきじゃないと理性が告げる。けれど、自分の中にあるなにかが強く、体をこの体育倉庫に閉じこめている。それは私のおなかの下の方にある、なにか。石灰の匂いだけが、私の冷静な思考を辛うじてつなぎ止めていた。
――逃げないんだ。
千恵が言った。なんで?と私は問い返した。
――今まで、見せた人は……逃げた。
今までにも誰かに見せたのだ、この背中を。甲羅を。甲羅に押し上げられた皮膚を。
男だろうか、女だろうか。
そう考えて、胃の底が重くなった。どうしてなのかは考えないようにした。
手を挙げて、千恵の肩を掴む。びくりと、千恵は怯えたウサギのように震えた。私は片方の手を背中に、もう片方を肩においたままで、千恵の隆起したような背中を見る。
その視線を背中の皮膚で感じているのだろうか、涙のように大きな汗がとろとろと、じぐざぐに背中を転がり落ちていく。その汗が、体育倉庫のセメントの床に落ちた音が聞こえた気がして、私ははっとした。
千恵が脱ぎ捨てていたブラウスを拾い、石灰がついてしまったそれを、ばさばさと振る。そして、かたかたと震えている千恵の背中に、ブラウスをかけてやった。
――……ありがと。
そう呟いたのは、私なのか、それとも千恵なのか。
セミの声と心臓の音と二人の荒い息がうるさくて、分からなかった。
ぺこ、とペットボトルを少し押す。薄暗くなっているけれどまだまだ暑くて、烏龍茶のペットボトルはぐっしょりと汗ばんでいる。その水滴を指で拾って、コンビニの駐車場に投げる。
ちらと隣をうかがうと、いろはすのペットボトルを同じようにぺこぺこ言わせている千恵がしゃがみ込んでいる。じわり、と蝉が鳴いた。
――本当なの?
――なにが?
――背中の……とか、
――河童、とか?
千恵がくすくすと笑った。泣かれるよりも、反応に困る。
千恵は、ペットボトルをぺこぺこ言わせながら、ぽつぽつと話し出す。この辺には河童が未だに生息しているとか、人間にはほとんど干渉しないが、千恵のハハオヤ(千恵は口に入れたままにしたくないとばかりにハハオヤと発音していた)は河童であるお父さんとの間に子供を産んだ、とか。
その子供が、私、と千恵は言う。
――私、思ったほどお父さんに似てなかったんだろうね。
確かに、人間に見える。肌が少し普通より白いことと、服を脱いだら見える背中の甲羅。それだけだ、千恵が普通じゃないことと言ったら。
――長袖なのも、なんか理由があるの?
――皮膚が弱いみたいなんだ、ちょっとしたことで、やけどしちゃう。
千恵は、袖をめくってみせる。そこには、丸い火傷の痕がいくつもある。
――ハハオヤは、私があんまり好きじゃないんだと思う。お父さんに似てないから。で、喧嘩ばっかり。私、逃げ出してきちゃった。
――今、どこに住んでるの?
――おじいちゃん家。だから、ハハオヤもこっちに私が逃げてきてるのは知ってるだろうし、そうじゃなきゃ、そもそも転校できないし。
都合よく厄介払いできたんだろうね、と千恵は言う。くすくす、と笑っている声は聞こえる。けれど、薄暗さに負けて表情は見えない。背中からコンビニの空気を読めてない明かりが当たっているから、なおのこと。
そんな、笑い声をあげてはいるけれど笑っていない女の子を、どうしてあげればいいのか、私は知らない。自分の無力さとかちっぽけさとか、そういうものに押しつぶされそうになった。
――……帰るね。
押しつぶされる前に逃げようと、立ち上がった。烏龍茶を全部飲み干す。
――誰かに、言う?
千恵が、下からのぞき込むように言った。私は、ペットボトルをめこりと握り潰した。
――言わないよ。
言わない。言いたくない。私以外に知らせたくない。
よかった、と千恵は言う。そして、私を見上げてくる。
――……もう少し、話さない?
いいけど、と私は震える膝を座らせる。夜がやってくる。蒸し暑い熱帯夜。喉がからからに乾いている。千恵の指が私の手に触れる。ひんやりとして、そして少し震えている指。その手を、私は――
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