第2話
――ねえ、転校生さ、あんたのことずっと睨んでない?
そう言ってきたのは小学校から同じクラスになり続けている美優。真面目な鉛筆みたいな顔で、ちらちらと千恵の背中をうかがっている。長袖のブラウスを着て、ハンドタオルで汗を拭いながら、文庫本を読んでいる千恵。
そうかな、と私が答えると、美優はそうだと強い口調で言ってきた。
――なんかあったの?
――いや、なにも。
――なんかあったら、ウチに相談してね。
――うん、わかった。
相談はきっとしないだろう。美優はその名の通り優しくて誰にでも力を貸そうとするけれど、私はそれに甘んじることを嫌らしいことだと思っている。自分で努力してなんとかできることなら、自分でこなすべきだ。 そして、そんな考え方をしている私は、明らかに女子中学生ではないはずだった。
蝉の声と自転車が並んでいる。
自転車置き場には、焦燥感みたいに赤い夕日が射し込んでいる。
汗が、首筋から背中へと流れ込んでいった。それは決して、暑さのせいだけじゃない。
目の前に、千恵がいる。
私と同じように汗を流しながら、七月の午後六時過ぎの中、じっとこっちを見ている。その表情は、相変わらずの無表情に見えたけれど、夕日と陰のコントラストで、今にもこちらに牙を剥きそうにも見えた。
刺されるのかも知れない、と私は思い至った。そういう緊迫感が、濃密な蝉の声に圧縮されてなお、確かにそこに漂っていた。中学生の凶悪犯罪。その片棒を担ぐことになるとは、と私は空っぽの喉に唾を飲み込んだ。なにも口の中には湧き出していなかったけれど。
だから、私はなにかを吐き出すことにする。言葉を。
「……なんで、見よると?」
声が震えていたかも知れない。それでも、言ってやった。どうして見ているのか。今だけじゃない、これまでも、ずっとだ。決してそれが不快というわけじゃなくて、本当に、純粋に、理由がわからないから。
千恵は、ぐっと押し黙ろうとして、その代わり、小さな白い手をぎゅっと握った。
「……ウチの、見たとやろ?」
ドキリとした。濡れた髪の毛。指先から落ちるしずく。かっと顔が赤くなったのが分かった。当然だ、親しいわけじゃない女の子の髪を見て、それを触りたいなんて思っていたんだから。そして、そのことに気が付いて、同時に、その髪に触りたいという感情が、普通のものじゃないことに私は思い知ってしまっていた。聡い自分が、憎らしいくらいに。
なにかを言い返そうとして、そして、やはり濡れた髪を思い出す。てらてらと輝き、頭の形をまるく縁取るように張り付いた髪。そこからしるしると顔へ流れていくプールの水、少し驚いたように見開かれた瞳――遠くてそこまで見えていなかったはずなのに、私はその姿を、髪を、髪の質感を思い出していた。質量を持つほどに。
ごくり。
空の唾を飲み込む。固い唾は、喉を押し退けて飲み込まれ、胃を突き抜けてもっと下へと落ちていった気がした。
――もう一回、見せてよ。
勝手に、口が開いていた。からからに乾いた声が抜けていった。
蝉が、その鳴き声で私の両耳を塗りつぶそうとする。けれど、それを押し退けるように心臓が痛いくらいに脈打ち続けていた。
千恵の口が開く瞬間は、まるでスローモーションのように見えた。私の体感時間で、おおよそ三千年が経った頃だった。
――どこで、見せる?
体育倉庫は、やはり黴臭い。そこに石灰の噎せ返りそうな匂いも相まって、どうしてか私は、この空間、この匂いが好きだった。
私の後ろで、千恵が重い扉を閉める。ゴン、と鉄の扉が大きな音を立てた。
それにしても、千恵はここでどうやって、濡れた髪を見せるのだろう。水筒かなにかを持っている様子でもないし、体育倉庫に水道はない。どうするつもりなのかを訊ねるつもりで振り返ったら、千恵は、大きく深呼吸しながら、私のことを睨みつけていた。正確には、睨むほど鋭い視線で凝視していた。
千恵の指が震えているのが見える。小さく、小動物にも似た神経質さで震える指。その指が、そろそろと持ち上げられたかと思うと、千恵の長袖のブラウスのボタンに噛みついた。
ぷち、と。
震える指が苦労して、白いボタンを外す。汗を吸っているであろうブラウスは、物欲しげに少しだけ、口を開いた。
――なにしてんの!?
私は、思わず鋭く叫んだ。千恵は、私をぎゅっと睨み返してきた。
――見せろって言ったでしょ!?
千恵は自棄になったように、力任せにボタンを外していく。その、なんだか泣きそうにすら見える千恵の様子が衝撃的で、私はやめさせようとして持ち上げた手を、それ以上動かすことができない。
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