千恵を沈めないために
樹真一
第1話
重油のような黒い水がたぷたぷと揺れる音と、じーじーと鳴く虫の声と、ぜぇぜぇと喉が張り付きそうな私の息だけしか聞こえない熱帯夜だった。
目の前に横たわっている黒い水――筑後川は、果たしてどこまでが川でどこからが陸地なのか分からない。水面も、遠くの(それは対岸のはずだ)街灯を反射しているから辛うじてそうだと分かるだけで、昼間とはまるで違うその川が、本当に左手から右手へ流れているとは信じられない。
その先には、海があるのだ。有明海。でも、こんな黒くて重い水の塊が海の正体、川の正体なのだとしたら、私はここに入らなければならない。
怖い。
けれど、それよりも怖い。千恵を、こんな怖い水の中に沈めてしまうことの方が、ずっと怖い。
私は、歩くことすらできそうな重い水面に向かって、足をそろそろと踏み出していった。
千恵と出会ったのは、夏休みの前、放課後のプールサイドだった。
夕日に焼かれてオレンジ色になったプールサイドに座って、きらきらと揺れる水面を私は見ている。私の落ち着ける時間。いつからこの趣味にハマったかは覚えていないけれど、透き通った水で満たされている時期は大抵、学校のプールを眺めている。水泳部に入部希望者がいなくて一昨年廃部になったことは、私にとってラッキーだった。中学校のプールを独り占めできるのだから。
その日も、水面を眺めようとこっそりプールに向かい、フェンスの向こうにカバンをばすりと投げて、そろそろとフェンスをよじ登り、越えた。何度やっても、この瞬間がたまらない。心臓が、なにかを期待するように激しく脈打つ。生きていることを実感できる、なんてね。
だから、この日もいつも通り荷物をプールサイドに投げ込んで、フェンスを乗り越えて、上履きでプールサイドに降り立った。
そして、その瞬間に、ばじゃりと激しい水音が聞こえてきた。私は窒息するみたいに、動きを止めてしまった。
ばじゃりと水を巻き上げながら、誰かがプールからプールサイドへよじ登っていた。私の胸の音も、痛いぐらいにその早さを増していた。
したしたした、と水滴を落としながらプールサイドに立ったのは、私と同じか私より少し背が低い女の子だった。年は同じくらいかと思う、なにしろ、いかにも中学生みたいなスクール水着を着けていたから。
水に濡れた肩や髪の毛に、七月の夕日が当たっている。白い柔らかそうな肌を伝った塩素臭い水が、指先できらきらした光の玉を作って、それから足元のコンクリートに吸い込まれていく。
いつもなら水面を見ている私は、その日だけはそのまま、おかっぱのその女の子がこちらに気が付くまで、ずっとその子のことを見つめていた。
転校生がやってきたのは、その次の日。
もうすぐ夏休みというこのタイミングで、転校生だ。ある事情で福岡市内から私たちの通う中学校に転校してきた、と担任の先生が言っていて、でも私はその話の意味を考えることもできない。
だって、教壇に立ってうつむいているのは、昨日プールで見つめて、そして私を見て慌てて逃げていった女の子だったからだ。
短い髪(それは、ショートボブというよりおかっぱと言った方がしっくりくるような髪型だった)をさらりと冠っている。今日は、スクール水着じゃない。ウチの中学と違って、野暮ったくないチェックのスカートと白いブラウス。きっとブレザーなんだろうけど、夏だからブレザーは羽織っていない。そのかわりなのか、長袖のブラウスを着ている。寒がりなのかな、と思ったけれど、その首筋を汗が流れていくのを、私は見逃さない。
うちの中学校には、まだエアコンが完備されていない。これは市をあげた一種のギャクタイではないだろうか、なんて冗談めかして言うことがあるけれど、この日ほど、切実にそのことを考えたことはなかった。
あんなに汗をかいているのだから、エアコンくらいつけてやればいいのに。
転校生は、少しだけ顔を上げる。そして、伏し目がちだった目が、ほんの少しだけ見開かれた。異国の地で、同じ国の人を見つけたみたいな。
その目に、表情らしいものはない。でも、丸くて無表情で、夜みたいに黒い瞳が私のことをじっと見つめてくるのに、私はそれを不快だとは思わなかった。どうして見ているんだろう、とは思ったけれど。
水を見るのが好きだけど、泳ぐのは好きじゃない。
というより、みんなで泳ぐのが好きじゃない。みんなでなにかをする、っていうのが、息が詰まる。ただでさえ、息を詰めなきゃいけない水の中なのに。
水泳帽に締め付けられた頭がかゆい。顔を流れていく水がぬるぬるしているような気がする。そして、「千恵」と名乗った転校生は、プールサイドの屋根に隠れるようにして、水泳の授業を見学していた。まるで、学生証の写真みたいな、薄っぺらいラミネートの向こうみたいな無表情で。
私には、不思議でならなかった。最初に出会ったのがプールだったし、泳ぐのが好きなんだと思っていたし、そうでなければプールに忍び込んで泳いだりはしないだろう。
なのに千恵は、泳ぐことをそもそも理解してないような表情で、無邪気にばしゃばしゃしているクラスメートたちを見ている。泳げばいいのに。髪を濡らせばいいのに。あの濡れた髪を触ってみたい。しっとりしたシルクみたいな手触りを想像して、私は鳥肌が立つ。
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