終 Dear Prince
Sérénade ~セレナード~ 前編
1
「
僕の口から
僕はそれどころじゃない。
混乱する頭で必死に考える。
僕は神成先生に『サキチャン』と呼ばれていた。そして、『レイチャン』と呼ばれていたあの子は、男の子だったのか…。
女の子(だと思っていた)のレイちゃんと、高峯
その事実を踏まえて考えれば考えるほど、アキラのこれまでの意味不明な行動の辻褄が合う。
しかし、小学二年生、十年も前の出来事だ。記憶が思うように
どうして?
アキラは気がついていた?
いつから?
思考の渦に巻き込まれそうになった時、突然僕の左手に柔らかな
外山の右手だった。
気が付かないうちに、手が震えていたらしい。
外山は自分の顔をギリギリまで僕に寄せると、
僕は首を横に振って、大丈夫だと伝えるために右手の親指を立てた。
おかげで、熱しすぎた脳が少し冷静になった。
外山は僕の様子を確認して、手を離して元の姿勢へ戻った。
僕も演奏へ意識を戻す。
異なる旋律を挟みながら、主題に何度も回帰する形式をロンド形式という。中でも〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉はABACAの型をとる小ロンド形式に分類される。
アキラの演奏は、二回目のA(主題)を終えるところだった。
ここから唐突に旋律が高音部へ移り、
フルートやハープの音が聴こえてくるような錯覚。この曲はラヴェル自身によって
高音部では音の粒がきらきらと輝き、低音部が優しく包み込む。
大きな音は、激しい音とイコールではない。この曲では、特に深い音のことを指す。アキラが奏でている音は、深くて、奥行きがある。
彼が作り出すこの空間にはきっと暴力も、荒々しい感情も最初から無かったに違いない。そんな突拍子も無いことを考えた。
名残惜しげに最後の一音が消えると、ホールは異常なまでの静寂に支配された。
観客は余韻に浸りながらも、息を殺して二曲目の始まりを待ち構えている。
アキラはそれを知ってか知らずか、鍵盤から手を下ろしたまま
次の曲は十年前、僕が「弾きたい」と言った曲だ。もしかしたら、彼なりの想い、覚悟があるのかもしれない。
アキラの手が鍵盤に乗り、ようやく第一音が鳴る。
〈ラヴェル 組曲「鏡」より第四曲 道化師の朝の歌〉
同じラヴェルでも“亡き王女”とは打って変わり、おどけたリズムで始まった。
ラヴェルの母の祖国スペインのリズムが多用された、スペイン
変則的なリズムと演奏技巧が複雑に絡み合い、華やかでコミカルな雰囲気を醸し出す。
多種多彩の同音連打、超速パッセージ、二重グリッサンド、エトセトラ。
あの頃は「弾いてみたい」なんて簡単に考えていたが、今なら神成先生の言葉もよく理解できる。先生は「頑張れば弾けるようになる」と言ってくれたが、これは長く練習したからといって弾ける
これからピアノを再開したとしても…いや、もしも今日までピアノを辞めなかったとしても、僕には弾けなかったかもしれない。たとえなんとか弾けるようになっても、思い通りに演奏できるかどうかはまた別問題だ。
アキラ……レイちゃんは僕に代わってこの曲を選曲したのだ、という考えがよぎった。
以前なら「自意識過剰だ」と自ら
ここまで状況が揃ったら、そんな考えが浮かんだって仕方ないじゃないか。
十年の時を経て、会いに来てくれたんだ。きっと犠牲にしたものもあっただろう。
無価値感、無力感に必死で抵抗しようとしていた僕に、アキラは十年もかけて会いに来てくれた。そして救い上げてくれた。これは偶然なんかじゃなかったんだ。
この気持ちをどう表現すればいいのだろう。
“道化師”の中間部はより表情に富み、哀愁を帯びて歌う。
ようやく理解した。
頬が冷たいのは、涙のせいだったんだ。
(Sérénade 後編へつづく)
ラヴェル/ 組曲「鏡」より 4.道化師の朝の歌
https://youtu.be/xdzWNAVgics
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