7.5 夢想
Rêverie
揺蕩う記憶の断片
***
恐る恐るスウェーデンハウスの扉を開ける。鍵は閉まっていなかった。
初めて訪れる家にチャイムも無しに入るというのは、少し悪いことをしている気分になる。しかし、ピアノ教室というのはそういうものらしい。
家に入ると、綺麗な音楽が聴こえてきた。『綺麗だ』という言葉以外にも、もっと色々な表現があるはずだ。でも、これ以外の形容詞は残念ながら思い出せなかった。
玄関で靴を脱いでドアを開けると、自分と年齢の近そうな女の子が、大きなピアノを弾いていた。
隣に座っている女の人がピアノの先生であるのは間違いない。
ソファに座って、落ち着かない気持ちでその子を見つめる。
***
「ありがとうございましたっ」
「はい。今日やったところ、来週までに直してきてね。〈夢〉は来週でマルがつくようにね! 」
女の子のレッスンが終わり、先生がこちらを向く。
「あ、キミが今日から入ってくる子だよね? はじめまして。
「は、はじめまして…。よろしくおねがいします」
「そういえば、レイチャンはサキチャンと同い年だね! 二人とも小学校二年生」
「へぇ、レイちゃんっていうんだ。よろしくね! ピアノならうのはじめて?」
「う、うん。家にピアノはあるけど、あんまりひいたことない」
「ピアノ、楽しいよ! 」
「あの…さ、サキちゃんがひいてたの、すっごくキレイだった。ああいうの、ひけるようになるかな…」
「なるよ! がんばれば、すぐひけるようになる! 」
「へへ。そっかぁ… 」
「二人とも仲良くなれそうで結構! じゃあ、そろそろレイチャンの初レッスン始めちゃおっかなー?」
「レイちゃんがんばれ! レイちゃんと神成先生、さようなら! 」
「はーい。さようなら」
***
「レイちゃんすごっ。もう〈夢〉ひけるようになっちゃったんだ」
「うん。サキちゃんが、がんばればすぐひけるようになるって言ってくれたから」
「レイチャンもサキチャンも練習頑張ってて偉い。次は何を弾けるようになりたい? 」
「うーん…かんがえたことない。サキちゃんは? 」
「〈道化師の朝の歌〉。この前コンサートできいたんだ」
「キレイ? 」
「キレイだし、かっこいい」
「ふふ。すっごく難しい曲だけど、このまま頑張って練習すれば弾けるようになるよ」
「あっ…すっごくむずかしいんだ… 」
「うん。でも、先生もその曲好き。カッコイイよね。同じ作曲家だと、〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉っていうのがあるんだけど、知ってる? 」
「知らない」
「じゃあ、聴いてみようよ」
***
「さ、サキちゃん…? 」
「どうしたサキチャン!そんなに目潤ませて」
「なんか…きれいすぎて、なきそう…。短調じゃないし、『かなしい』って思うわけでもないのに」
「わかる、わかるよぉ! 綺麗すぎて、せつなくなっちゃうよね。先生も初めて聴いた時そうだった。涙腺緩んじゃう」
「ひいてみたいな」
「おっ、レイチャンはやる気だねぇ」
「でも、サキちゃんまたないちゃう?」
「な…! なかないよ。ひけばいいじゃん」
「あっ、そうだ。この曲はね、連弾用にも編曲されてるんだよ。二人で弾いてみればいいんじゃない? 」
「レイちゃんと…? 」
「ひ、ひこうよ! 一緒に弾こうよ、サキちゃん」
「わ、わかったよ」
「約束ね。小指出して?」
「「指切りげんまん嘘ついたらはりせんぼんのーます。指切った」」
***
「レイちゃん。また会えるよね? 」
「サキちゃんは、もう会ってくれないの? 」
「レイちゃん…」
「なくつもりじゃっ…ごめ、んっ」
「また会えるよ。ううん。ぜったいぜったい、また会おうよ。連弾も、約束したもんね」
「うんっ、ぜったい、ぜったい、会いに行く。二人でパヴァーヌ、ひこうね」
「ゆび切りしたの、おぼえてる? 」
「うん」
「じゃあ、もう一回ゆび切りしよ! 」
「「指切りげんまん…」」
**
先に彼女以外と連弾をするのは、正直なところ気が引けた。
しかし連弾に慣れておくことは大事だ。実力がついていれば、再会した時に喜んでくれるかもしれない。
『初めて出たコンクールで銀賞なんてすごい!頑張ったね。ご褒美に、好きなものを一つだけ買ってあげる』
選んだのは、ある曲の楽譜。
本当は金賞が欲しかったけど…。
次はもっと頑張ろう。
〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉のソロ楽譜をぎゅっと抱きしめる。
**
次の年は、無事に金賞がとれた。
それ以降、連弾からは離れてソロに集中することにした。
連弾のパートナーからはたいそう残念がられて申し訳なかったが、自分には自分の道があるのだ。
ドビュッシー/ 夢(夢想)
原題:Rêverie
https://youtu.be/VKGRssiqKV0
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