7-2 Pavane~パヴァーヌ~

 背後から、聞き慣れた声で名前を呼ばれた。


 振り返ると、グレーのシックなワンピースに身を包んだ外山明里がいた。


 日本国内には、ドレスコードのあるコンサートはほとんど無い。見たところ女性はワンピース、男性は襟付きのシャツが多い。僕も、襟付きのシャツにカジュアルなジャケットを羽織っただけだ。


 彼女の手には、僕が持っているものと同じチラシがあった。


 外山も一人で受賞者コンサートを見に来たという。ここで会ったのは偶然だが、一緒に行動する流れとなった。


 「今日は一段と目立ってるね」


 外山は微笑してそう言った。意味がわからず、妙な間が空いた。


 「なんのこと? 」


 「そのジャケット似合ってるじゃん」


 「ありがとう。そのワンピースもいいね」


 「さっきも、近くにいたカップルの女の子に見られてたよ。男の子の機嫌が悪くなってた」


 「因果関係がわからないよ」


 「そうだ、これ見た? 」


 観客席で外山が差し出してきたチラシには、『第○回 毎日コンクール 受賞者コンサート』という文字が大きく書かれている。


 その下には、出演者のうち上の三部門で1位を受賞した3人の顔写真と演奏曲が載っている。その3人の中に、高峯アキラがいた。


 「見たよ」


 僕が一言だけそう言うと、外山は黙った。まるで、僕の二言目を待ち構えているみたいだ。


 「どうした? 」


 「何も思わなかったの? 」


 開演ブザーが鳴る。


 ざわめきが引き、観客席の照明が消えていく。


 いくつかの注意事項がアナウンスされ、下の級の受賞者から順に演奏が始まった。


 基本的に級が上がるごとに年齢も上がるが、時々『おや』と思うような年齢の子が難曲を弾いていた。先程の〈ラ・カンパネラ〉の奏者は小学生だった。やはり、リストの華やかな曲は演奏会でよく映える。


 その後もハッとするような難易度の選曲をする奏者が続き、あらためてピアノコンクールの層の厚さを実感する。


 現在演奏されているのは、こちらもリストの難曲として名高い〈超絶技巧練習曲 第4番 マゼッパ〉。奏者はスポーツ選手のような風貌の男子高校生だ。


 〈マゼッパ〉の音の奔流ほんりゅうを感じながら、ふとアキラのことを想った。


 高校3年間のうち、関わった期間が1年にも満たないことに驚く。しかし『たった1年の付き合い』と割り切るにはお互いを知りすぎた、とも思う。


 〈マゼッパ〉の疾走は止まらない。


 僕の日常に突然現れた転校生。知的で冷静なたたずまい。薄く笑みを浮かべた唇。凪いだ清らかな瞳。その奥にこの曲のような豪快さが、奔放さがあった。


 アキラには隙がない。弱点となり得る部分を見せない。内側を見せない。だから、あの夏の日に垣間かいまた闇の一端も、気がついたのはきっと僕だけだ。アキラと互いを理解したのも、僕だけだ。


 充足感とかすかな不安が広がる。




 不安…どうして、不安?


 怖いのは、この不透明さ?

 

 なにが、怖い?

 

 


 “高嶺の花”に手が届かないのはなぜか。


 引力に逆らおうとしているからだ。


 手が“届かない”のではない。自己を護るために、そもそも届けようとしていない。


 練習を聴かれるのが恥ずかしいと言った外山も、遠目に見ていただけのクラスメイトも、アキラの引力に抗っていた。

 

 僕はもう、離れ難いところまで引き寄せられてしまった。全て幻ではないかとさえ疑うほどに。


 ああそうか。僕はアキラといるのが…、それ以上にアキラが離れていくのが、怖いんだ。


 簡単なことじゃないか。僕はプラスの感情だけでは処理しきれないほど、彼という人間に愛着を持ってしまったのだ。


 いい加減認めろ。


 思考を切り上げると、すでに演奏は終わっていた。


 「次だよ」


 耳元で外山がささやいた。



『高峯アキラさん。g級金賞。曲は、ラヴェル〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉、ラヴェル 組曲「鏡」より第四番〈道化師の朝の歌〉』



 アナウンスに周囲がほんのわずかにざわめき、僕も少なからず衝撃を受ける。


 そうか、外山が言いたかったのはこれだったのだ。チラシを見たとき、どうして僕は気が付かなかったのだろう。


 ラヴェルを二曲。そのうち〈道化師の朝の歌〉は言わずもがな難曲だ。アキラが学校祭で演奏した〈トッカータ〉とも並ぶ。


 一方で〈亡き王女のためのパヴァーヌ〉には、技巧的な箇所がまず無い。


 受賞者コンサートでは、技術と表現力を共に活かせる曲が選ばれる傾向にある。スケジュール等の事情で易しめの選曲をする場合もあるが、それにしても“亡き王女”は音楽性を無視すれば中級程度だ。


 音楽性を追求すれば決して易しくない曲だし、むしろ難しい部類に入るだろう。管弦楽的に書かれた多くの音を理解するのも初学者には至難の業だ。


 しかし、このコンサートでは明らかに浮いている。

 

 しかも難曲の“道化師”と二曲組み合わせていることから、『練習にかける時間が足りなかった』という理由でないことは明白だ。となると、何か別の意図があって選曲したということなのだろうか。


 そんな疑問とは別に、アキラが登場した瞬間、弛緩しかんしていた空気が再び緊張した。


 地区本選はグレーの基本的な形のネクタイを締めていたはずだが、今日は白い蝶ネクタイだ。


 学校祭の時と同じで、穏やかな空気を纏っている。アキラが普段の柔和さを完全に排除して、恐ろしいまでに張り詰めた空気で他を圧倒するのを見られたのは、地区本選の時だけだ。


 彼はピアノの前にたどり着いて礼をしたあと、微笑みを浮かべて拍手に応えた。



 久々にステージ上のアキラを目の当たりにして、やはりアキラには演奏とは別に、観客を惹き付け、圧倒する魅力があるのだと再確認する。


 それは単に表面的な外見や仕草の美しさばかりでなく、高峯アキラの人格、人生そのものによるものだ。美しさは時や場所に左右され得る不確かなものかもしれないが、彼の内面から溢れ出るオーラは常に周囲を魅了し続ける。


 アキラはいつも通り、無駄のない洗練された動作で椅子に座る。


 勿体ぶることなく、両腕が振り下ろされた。


 息を呑む。


 あまりにも優しい音だった。


 切ないほどに、優しい。


 この曲は極めてゆっくり弾いたり、思い入れたっぷりに弾いたり、奏者によって様々な解釈で演奏される。


 対してアキラの演奏は、テンポを揺らテンポ・ルバートし過ぎることもなく、シンプルで、彼らしく気品がありエレガント、しっかりと情感は込められているが過度ではない。


 このようなテンポがゆっくりで美しい曲をえて『抑えて弾く』演奏にこそ、実は安定したテクニックが必要なのだ。


 シンプルではあるけど、心にすうっと馴染んで、包み込むかのような―――


 空気が心地よく震え、ぼんやりと霞む。分析しようとしても、思考が霧散する。


 アキラはこの美しい調べを、誰かを想いながら弾いているのだろうか……。



 綺麗すぎて、泣きそうになる。短調の曲ではないし、『悲しい』と感じるわけでもないのに──






――――――デジャブ


          ――――既知感



 既知感デジャヴュ



    




 

 稲妻が走った。



 加速する脳。



 身体は動かない。



 脳だけが汗を流す。



 映像が次々と蘇る。



 『やっぱり好きなんだね?』

 


 僕が、ラヴェルを……



 『ボクはショウくんとやりたいんだよ。それ以外に興味はない』 



 やけに連弾に執着していたアキラ。



 『でも、音楽は好きなんでしょう?』



 確信めいたアキラ。



 『ショウくんはラヴェルの本を読もうとしてた』



 ラヴェル……



 『かっこいいって? えっと、クラス名簿は……』



 アキラの名前……?



 『高峯たかみねアキラです。父の転勤でこの土地に越してきました』



 あの時、僕はアキラの視線から逃げなかった。





 必死に名簿の文字列を思い出す。


 彼の名前は……、微笑んできた、彼の名前は……




 ああ……なんということだ。


 どうして?





 「レイ、ちゃん……」




ラヴェル/ 亡き王女のためのパヴァーヌ

https://youtu.be/cwL4nSb9am8


リスト/ 超絶技巧練習曲第4番 マゼッパ

https://youtu.be/CXGeOHdiHrE

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