6-2 Nocturne~ノクターン~

        1

 数十分前に起こった衝撃的な出来事。


 地区本選一位通過、周囲の期待を一身に集めるアキラが、あろう事か全国大会に「出ないことにした」と言う。そもそも自主的に参加を決め検定料を支払うコンクールにおいて、特別な事情も無しに大会をキャンセルするだなんて聞いたことがない。


 アキラが転校してきた日のワンシーンをはっと思い出す。


 あれが伏線だったというのか。


 ……いや、まだわからない。何か本当に事情があるのかもしれない。


 机に広げた参考書や文房具をリュックに仕舞い、持ってきた麦茶を一気に飲み干す。


 ――絶対に理由わけを聞き出す。


 僕は自習室を出て、アキラが授業を受けている教室へ向かった。


 ちょうど授業が終わる時間だ。


 歩きながらアキラに言いたいこと、聞きたいことを考えようとしても、上手くまとまらない。


 教室から出てくる集団の中にアキラを見つける。僕は人の波を縫って、アキラの腕を掴んだ。


 「……何してるの? 」


 アキラは掴まれた腕を一瞥いちべつし、微笑んで言った。


 何事も無かったかのような微笑みに、僕は言葉を詰まらせる。そして、無い言葉をどうにか絞り出す。


 「さっきの……。さっきの、『ごめんね』ってどういう意味?」


 「どういう意味って。話の途中だけど教室に入らなきゃいけないから『ごめんね』って意味だよ」


 違う。あの時の言葉には、それ以上の意味も含まれていたはずだ。


 『ごめんね』と言って目の前を横切ったアキラの伏し目がちな表情と、彼が立ち去る時に残していったほんの僅かな風の香りが、頭から離れない。


 「ショウくん。次の教室に行かなくていいの?」


 「僕はもう授業取ってないから。アキラは?」


 「ボクも。でも、もう帰るから」


 決して強い口調では無いが、やんわりと拒絶を示してくる。僕はまだ引き下がらない。


 「駅まで一緒に行こう」


 「……隣のカフェに入って話す? 」


 思いがけない提案に、僕はすかさず頷いた。


        2

 「お待たせいたしました。アメリカンと紅茶です。ごゆっくりどうぞ」


 僕は紅茶を受け取り、席に着く。

 

 「全国大会に出ないことにしたって、冗談? どうして? 」


 いきなり核心に切り込む。アキラは落ち着いている。しかし、一向いっこうに口を開こうとしない。


 痺れを切らした僕は、更に問いかける。


 「転校初日。外山に過去のコンクールについて言及されて、顔を強ばらせていたことと、何か関係があるの? 」


 アキラは答えない。


 カフェで話すことを自分から提案しておいてこの対応。誠実だとは言い難い。普段のアキラとはかけ離れている。


 目の前のアキラが僕の知らない人のようで、恐ろしくなる。


 必死に思考をめぐらしていると突然、あの時の外山の言葉が甦った。


 『え? 高峯くん、三月末にあった全日本クラシックコンクールでも三位だったじゃない』


 ほとんど考える前に言葉が出る。


 「三位だったから? 」


 それまで無言だったアキラが、目を見開いた。その反応に、僕は身震いする。


 外山によると、アキラは各コンクールで華々しい成績を残すも、確か高校からは、優勝はおろか二位以上の順位を取っていない。入賞するだけでも凄まじい倍率なのだが、アキラは見ている次元が違うのだろう。


 極めつけは地区本選で、〈ワルトシュタイン〉の演奏後に上がった声。心のどこかにずっと引っかかっていた、あの言葉だ。


 『無敵の王子様、じゃない』


 あれは、それまでのアキラが不調だったことを示していた。


 全国大会でまた不調になるかもしれない。それを恐れているのか。


 しかし、アキラに限ってそんな。誠実で柔和なアキラ。けれど、ステージに上がったアキラは精悍せいかんな獅子だ。何にも阻まれない魔王だ。


 ……そうだ。アキラはそういうピアニストだ。恐れをなして逃げ出すだなんて、有り得ない。どうして僕は、こんなくだらないことを考えているのだろう。


 そう思うのに、こんなくだらない考えが、溢れて収まらないんだ。早く、早くアキラ。『そんなことあるわけないじゃいか』と、一笑に付してくれ。


 『なんでもないよ』といつも通り微笑んでくれ。くだらない考えを口にした僕を、責めてくれてもいい。とにかく否定してくれ、お願いだ──


 「そうだよ」


 アキラがようやく口を開いた。肯定の言葉を聞いて、僕の頭は真っ白になる。


 目の前にいたはずのアキラは、もう完全に僕の知っている──僕が知っているつもりだったアキラじゃない。


 彼は落ち着き払った態度で、淡々と話を続けた。


 「コンクールに出ても、結果が振るわなくなってきた。将来ピアニストになろうと決めているわけでもないし、コンクールには特に目的意識も無く参加していた。もうやめどきだと――」


 ダンッ


 テーブルに拳を叩きつける。


 「ふざけるなよ。僕を強引にステージに連れ戻しておいて、自分はそんな無責任なことをするのか。やめどき? 逃げじゃないか」


 昼時で人が多く、店内がざわついていたのは幸いだ。しかし、そんなことはどうでもよかった。


 怒りで声が震える。悔しさで吐きそうになる。


 あの時感じ取ったピアノに対する真摯さ、誠実さは錯覚だったのか。


 僕は、こんな無責任な奴の演奏に動かされてしまったのか?


 アキラのピアノは人を変える力があったのに。


 信じたくない。


 「それなら、最初から参加しなければよかったじゃないか。どうして地区本選まで出た? まさか、僕に見せるために?」


 地区予選を通過した外山に、アキラが不自然に話しかけた時。そうだ、あの時がきっかけで、僕は地区本選を見に行こうと思ったんだ。そして、アキラの演奏を見せつけられた僕は、連弾することを決めた。


 「君が何を考えているのかわからない」


 僕はリュックを掴んで立ち上がろうとした。すると、アキラが「待って」と声を上げた。


 「どうかしてた。ごめん。全国大会には出る。ただ、ボクが全国大会で優勝できたら、絶対に受賞者コンサートを見に来て。お願い」


 『全国大会に出る』。その言葉を聞いて、僕は途端に冷静になった。


 「僕こそごめん。ロクに知らないのに、声を荒げて、ちょっと普通じゃなかった」


 取り乱したことを詫びようと、アキラに頭を下げる。しかし、裏切られたような気持ちがまだ引っかかっている。


 掴みかけたと思っていたアキラのが、僕が知った気になっていたが、ガラガラと音を立てて崩れていく。僕たちの関係はまた、出会った日にリセットされてしまうのだろうか。


 「わかった。受賞者コンサート、見に行くよ」


 僕はそれだけ言って、店を出た。



 ショウが店を出て、一人取り残される。


 アキラはコーヒーカップを傾けながら、さっきまでのこと……ショウから受けた指摘と、自分のを整理しようとしていた。



 『コンクールの結果が振るわなくなっていたから、全国大会に出るのを辞めた』


 『目的意識もなく参加していた』


 これらは九割がたウソだ。


 ショウは高校を卒業したら北海道に行くと言う。卒業後はまず会えないだろう。それに加えて全国大会に出場して入賞してしまえば、付随してコンサート等の予定も発生する。


 だから、残された高校生活を、全国大会に出ることで削りたくなかった。


 ショウと過ごせる時間を、少しでも減らしたくなかった。これが、全国大会を見送ろうとした本当の理由だ。


 また、コンクールに参加する目的意識が無かったわけではない。目的は██████だ。その目的も、すでに達成されてしまった。だから、これ以上コンクールに出る必要も無かった。


 外山の口から過去のコンクールの話題が出た時、確かにアキラの顔はこわばっていた。


 ショウは人の表情をよく観察しているらしい。だが、その理由に関しては全く的外れだった。


 ショウがピアノにコンプレックスを抱えていることは、事前に人から聞いて知っていた。だから、コンクール受賞歴など余計な情報を与えて、転校初日からショウに距離を取られたくなかったというだけだ。三位云々うんぬんは関係がない。


 どうしてショウに本当のことを言わなかったのか? そんなの、計画が崩れるからに決まってるじゃないか。


 ショウが勝手に色々と解釈してくれたのでそれに乗ることにしたのだ。


 黙っていたら、次々とストーリーを作ってくれて助かった。


 地区本選まで出場した理由については、ショウが推測した通りだ。


 自分の演奏を聞かせることで、『弾かない』というショウの意思を変えられるかもしれないと思った。だから、ショウに関心を持たせるため、わざわざショウの前で外山に話しかけた。見に来てくれるかどうかは、正直賭けだったが。


 要するに、地区本選に出るところまでに不都合は何も無い。全国大会で入賞しない限りは、コンサート等で忙殺されることもないし、目的を果たせたのは『地区本選後』だ。だから、地区本選には躊躇なく出場した。



 やはり平常心ではないようだ。たったこれだけのことを考えるのに、約十秒も経っている。


 馬鹿正直に「出ないことにした」なんて言ってしまったことを、アキラは後悔した。


 でも、ショウの言う通りだ。ショウにステージに立つことを要求しておきながら、当のアキラがステージから降りるなど、無責任にも程があった。


 これだけじゃない。自分がどれだけアキラに影響を与えてきたのかなんて、ショウは考えたこともないだろう。


 『誠実』『柔和』『人を傷つけない』『謙虚』『純粋』といった、ショウのアキラへの評価は正しい。敢えて言うならば、純粋すぎるのだ。


 アキラには、ショウが絡むと周りが見えなくなる、また、冷静な判断を下せなくなるという欠点がある。


 そのくせ妙に策略めいたことをするから、余計に状況が混乱するのだ。


 ショウに嫌われてしまっただろうか。


 それだけがアキラにとって気がかりだった。


 きっと、大丈夫だろう。これまで築き上げてきた関係は、この位で崩れるほどヤワじゃないはずだ。


 アメリカンが入っていたカップの底が見えたのを確認して、アキラはゆっくりと立ち上がった。



https://youtu.be/yYYLgQ9-xd8

登場曲はありませんでしたが、私が独断と偏見で選んだノクターンをどうぞ……。(1曲目と2曲目)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る