6 イマジネ

6-1 Barcarole~バルカローレ~

        1 

 高校生になってからは、塾や予備校というものに縁がなかった。


 だが、高三の夏休みになって、初めて某大手予備校に来ている。


 この予備校の各フロアBGMは全てクラシックピアノだ。


 よくよく聴いてみると『全て』と言っても流れているのは二曲だけで、内容はどのフロアでも同じだった。


 ドビュッシーの〈映像 第1集 1.水の反映〉と、ショパンの〈アンダンテ・スピアナート〉の二曲が、エンドレスリピートされている。


 どちらもリラックス効果はあると思うが、もう少しバリエーションを増やしてもよいのではないだろうか…と、思うのは僕だけだろうか。


 予備校でBGMをじっと聴いている生徒など、そんなにはいないだろう。


 余計な思考を中断して次の教室を確認し、エレベーターに乗り込む。次は英語だ。


 僕が目指している大学・学部では一次試験では五教科七科目、二次試験では三教科四科目の受験が必須となっている。

 

 苦手科目の穴をこの夏に埋めるべく、予備校の夏期講習に頼ろうというわけだ。


        2

 授業が終わり教室を出ると、僕はそこで予想していなかった人物を見つけた。


 その人物は誰と話すでもなく一人でたたずんでいたが、心無しか周囲の、特に女性の視線を集めているようだ。


 向こうも僕に気がついて、こちらに近づいてくる。


 「ショウくんもここの講習に来てたんだ」


 久しぶりに会うアキラは相変わらず、日焼けとは無縁そうな肌をしている。


 「アキラは次この教室で授業を受けるの? 」


 「そうだよ」


 この教室で次に行われるのは、T大学対策の授業だ。


 「理Ⅰ? 」


 僕がそう尋ねると、アキラは驚いたという表情で答えた。


 「どうしてわかったの? 」


 「正解? 当てずっぽうだったんだけどな。数学とか物理が好きそうって思って」


 T大学志望だということすらハッキリとは知らなかったが、どうやら僕のイメージは間違っていなかったらしい。


 音大に進むのかと思っていた時期もあったが、そうでないことは日々の生活で薄々感じ取っていた。


 「ショウくんは…北海道、だったよね」


 「うん」


 「H大学の獣医は最難関だよね。医学部じゃなくて獣医学部を志望するのは、やっぱり動物が好きだから? 」


 今日のアキラは随分と踏み込んでくる。


 好きなのかって?


 わざわざ北海道まで行くつもりなのだから、当たり前ではないか。


 と言いたいところだが、僕にはそう言いきれなかった。


 「正直、動物は好きというほどでもないんだ」


 こんなこと、僕は今まで誰にも言ったことがなかった。


 獣医師を目指す動機を、自分の中に固く閉じ込めていた。

 

 しかし、アキラを前にして、躊躇や逡巡はなぜか無くなっていた。


 自分でもその事に驚きながら、なんでもない世間話をする時と同じ調子で語り出す。


 「学祭前に話した、僕が四年前、最後に出たコンクールの話を覚えてる? 」


 アキラは何かを察したように、目を細めた。


 「色々あって演奏中に動揺してしまったって、聞いた」


 「そう。そのの部分なんだけどね」


 僕は、コンクール当日に体験した事の顛末てんまつを語った。


 「……そうして、僕はあの時の罪悪感をずっと引きずっている。


 いや、罪悪感ですらないのかもしれない。あの日から僕はピアノに向かうことが怖くなった。何もかもが中途半端になっていく自分が、許せなかった。


 だから、この高校を選んで、あのとき自分が助けられなかった命を将来助けようと思った。そうすることで、自分をゆるそうとしたんだ。ピアノから離れて中途半端になっていく自分に、目を背けて……。


 動機が罪悪感なら救いようがある。でも僕の動機は。味気なくて空っぽな自分を満たしたいだけの、ただの自己満足」


 中学二年生、最後のコンクール。本番前の散歩。公園の猫。散々な演奏……。


 始めはこれらの事実を淡々と述べていたのだが、精神的な話になると静かに感情が沈んでいった。


 やっぱりダメだ。


 今まで誰かに話したことがなかった。つまり、言語化したことがなかった。


 初めて言語化して身体の外へ発したことで、奥底に根を張っていた暗いものが膨らみ、露出してしまった。

 

 アキラと出会ってまだ数ヶ月。一緒にいると、自分さえ素顔だと信じていた仮面が勝手に剥がれていくようだ。


 情けなくてアキラの顔を見れない。


 「本当に、それでいいの? 」


 僕の頭に、アキラの声がはっきりと響く。


 「だって、僕は。僕は…」


 『そのために勉強してきたんだ』


 『それ以外に考えたことがない』


 喉まででかかった言葉たちを飲み込む。


 浮かぶ言葉が、どうしようもなく言い訳がましい。

 

 なぜ今まで気がつかなかったのだろう。


 一心不乱に獣医師を目指すことが、僕の空虚さを満たしていると思っていた。


 だが、その行動自体が、僕の空虚さを証明していたのだ。


 過去の罪悪にすがらなければ、未来を決められない。


 僕は空っぽになることを恐れていた。


 しかし、とっくに僕は空っぽになっていたのだ。


 「ピアノ、まだ怖い? 」


 突然の話題に、アキラを見つめる。


 アキラは静かに口を開いた。

 

 「僕とピアノを弾いて、思い出してくれたんだよね。ピアノが楽しいってこと。それから、光が見えたとも言ってくれた」


 アキラは続けてゆっくりと、優しい声音で言葉を紡ぐ。


 「ショウくんは元から空っぽなんかじゃない。そう言っただけじゃ、納得して貰えない? じゃあ、ショウくんがこれまで空っぽだったとしようか。ボクとピアノを弾いてくれた時の充実感、それはだよね? 」


 「高校に入学してからも、充実感を覚えたことなんて一度もなかった。アキラとピアノを弾いていた日々以外は」


 「なら、もう悩むことなんてないはずだよ。ピアノを弾くことは、ショウくんが恐れることではなくなった。四年前のことは克服された。充実感も体験した。だから、ショウくんはもう空っぽじゃない。猫だって、きっと助かったよ。事故が起こったのも、ショウくんのせいだと言う人がどこにいる? 」


 アキラの言葉が、じわじわと胸に染みていく。


 四年間誰にも言えずに苛まれてきた想いに、初めて他人が触れた。完全にではないが、少しずつ融けていく気がした。


 気恥しいのを誤魔化そうと、話題を変える。


 「そういえば、毎日コンクールの全国大会は、たしか例年夏休み中だったよね」


 ああ、話題の変え方が下手すぎる。これじゃあバレバレだ。後悔しても仕方がないので、そのまま続けることにする。


 「アキラが出るのはいつ?」




 「出ないことにした」




 「そっか、出ない…」


 は?


 驚きのあまり、一拍遅れて無言で目を見開く形となってしまう。


 「アキラ。何を言って」


 そこに、予備校の職員らしき女性が割って入ってきた。


 「授業始まるよ? 教室に入るか、用がないなら別の場所でお話してね」


 「…じゃあね、ショウくん。ごめんね」


 そう言って素早く僕の目の前を横切り、アキラは教室の中へと消えて行った。


 取り残されて呆然と立ち尽くす僕。



 ごめんねって、何だよ。



ドビュッシー/ 映像 第1集 1.水の反映

https://youtu.be/Hyiu7fBUk7o


ショパン/ アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ

https://youtu.be/_YBzQrCIuac

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