5.5 無言歌

Romance sans paroles

四年前の夏の記憶


**

 ジュニア音楽コンクールには、幼児の部から高校生の部まで、六つの審査部門がある。


 中学二年生の唐木田ショウは、当たり前だが中学生の部に出場する。

 

 中学生の部は午後十四時から。


 出番まで、まだ時間はある。


 しかし、中途半端だ。


 いつもならばエントランスで大人しく待っているのだが…。


 その日は妙に気が落ち着かなかった。


 こういう時は、外の空気を吸うのが一番だ。


 すぐに戻れば大丈夫。


 ショウは意を決して、建物を出た。


**


 コンサートホールから歩いて数分のところにある公園。


 大きな噴水がある。


 人工的に噴出する水の流れ。


 清涼感と水音が心地よい。


 ショウはベンチに座り、ぼんやりとその流れを見つめる。


**


 中学二年生になり、進路について考える機会が増えてきた。


 家から近い高校を選ぶか、県の進学校を目指すか。


 ショウは、自転車で通える高校に行くつもりだった。


 将来やりたいことも特にない。


 今はピアノと部活のテニスで、それなりに充実した日々を過ごしている。


 わざわざ遠い高校を選ぶよりも近くの高校へ行った方が、ピアノや部活にさける時間は増えるだろう。


 しかし担任に強く勧められたのは、県の進学校だった。


 将来が決まっていないのなら、なおのこと選択肢が増える道を選ぶべきだという。


 選択肢?


 選択をするというのは、回りくどい言い方をすれば、選ばない方を決めるということだ。


 人間はいつだって選択をしている。


 選ばなかった方の可能性を考えていてはキリがない。


 どちらを選んでも、何かしらの可能性が消える。


 選択肢、可能性。


 そんなものを議論して何になるというのか。


**


 にゃあ。


 足下から鳴き声がして、反射的に下を向く。


 首輪を着けた猫が一匹、こちらを見ていた。


 ショウは動物嫌いというわけではない。


 しかし動物と触れ合う機会があまりなかった為に、扱い方がわからない。


 そのことがショウと動物との距離を遠ざけていた。


 猫と目が合う。


 ショウは視線を逸らすこともできず、猫とじっと見つめ合った。


 そういえば、猫を見下ろすのは良くないと聞いたことがある。


 自分よりサイズの大きい人間に見下ろされると、攻撃的と感じるのだったか。


 その時、胸ポケットの携帯電話が振動した。


 メールが届いたのだろう。


 猫に気を取られたまま取り出そうとして、手が滑り、携帯電話が地面に落ちる。


 猫はビクッと身体を震わせ、ショウの元から遠ざかって行った。


 安堵すると同時に、驚かせてしまった猫に申し訳ない気持ちになる。


 携帯電話を拾って視線を大通りへやると、猫が車道を渡ろうとしているのが見えた。


 明らかに法定速度を超えたスピードのワゴン車。


 あぶない!


 迫り来る車に、猫は身動きが取れない。


 ショウもベンチから身動きが取れない。


 お願い。


 逃げて。


**


 ステージ袖でも、頭から離れない。


 あの後すぐに、ちょうど公園に来た子供連れの大人が、恐らく動物病院に電話をかけていた。


 助かったかどうかは、わからない。


 ショウはただ呆然として見ているだけだった。


 初めての衝撃に頭が混乱する。


 あのタイミングで携帯電話を落とさなければ。


 猫と目が合ったあと、すぐに視線を逸らしていれば。

 

 ――自分のせいだという感情が、脳を埋め尽くす。


 ダメだ、今は目の前の本番に集中しなければならない。


 この本番はショウだけのものではない。


 ピアノの先生や親、環境の支えがあって、自分はここに立っている。


 その責任を一身に背負って、全てに報いなければならない。


 五番の人、と呼ぶ声が聞こえる。


 五番……。自分だ。


 切り替えよう、と立ち上がった。


**


 〈ショパン エチュード Op.25-2〉。


 ショパンのエチュードの中では最も易しい部類に入る。


 しかしあくまでショパンのエチュードの中では、という意味だ。


 そのスピード感と運指うんしの複雑さ故に指がもつれやすい曲だが、頭で考えなくとも指が動くくらいには弾き込んでいる。


 狭い音域を高速で駆け巡る。


 美しくも、塞ぎ込むような陰鬱さ。


 絶え間ない音の粒の連続。


 ――フッ――――


 一瞬、なんの前兆もなく光景がフラッシュバックする。


 音が途絶える。


 指が止まっていることを理解する。


 頭が真っ白になる。


 一体何が。


 気がつくと、指は運動を再開していた。


 その間、コンマ数秒。


 熱に浮かされたかのように、頭がぼうっとする。


 照明が眩しい。


 もう、その後の演奏の記憶は定かではない。



ショパン/ エチュード Op.25-2

https://youtu.be/-o2lYktVy3I

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