5-2 Romance~ロマンス~
1
油断すれば震え出しそうな手から意識を逸らそうと、目線を上げる。
用意された席は全て埋まり、立ち見も数人どころではない。
もちろん学祭中はこのLSP団以外にも、それぞれのクラスの出店や、体育館でのバンド演奏、ホールでの有志発表などが賑やかに行われている。
そんな中でこれほどの人が音楽室に集まる理由は、やはりアキラか。
「三年三組の高峯アキラです」
「同じく、唐木田ショウです」
決まった司会者はいないので、司会進行は演奏者自身がすることになっている。
大丈夫。ちゃんと声は出ている。
「プーランクの〈連弾ソナタ〉第一楽章と、ラヴェルの『マ・メール・ロワ』より〈美女と野獣の対話〉、〈妖精の園〉を演奏します。最後までお付き合い頂けると幸いです」
お辞儀をすると、演奏前にも関わらず大きめの拍手が起こる。
「唐木田ショウ」
頭を下げたその一瞬、隣から、僕にだけ届く声が聞こえた。
騒音の中で、いつもより少し低いその声だけが僕の脳を震わす。
頭を上げると、もうアキラは僕を見ていなかった。
颯爽と僕の前を通り過ぎて、椅子の調節を始める。
そういうこと、ね。
『ついておいで』という優しくも、傲慢で挑発的なメッセージ。
わかってる。どこまでも、食らいついてみせる。
続いて僕も椅子の高さを調節する。座る。ペダルの感覚を確かめる。膝の上に置いた手を見つめて、深呼吸。ルーティンワーク。
一曲目の〈連弾ソナタ〉には、僕のソロパートがある。ペダルを確認したのはそのためだ。
準備ができた、と視線を送ろうとすると、なんと、アキラは僕の合図を待たずして、第一音を今まさに鳴らそうとしていた。
練習時の流れを無視したアキラの行動に、(そういうことか)と二度目の納得をしてしまう。
昨日の音楽準備室で交わした「アキラのことだけ考える」という約束。
アキラが僕を無視するような振る舞いをするならば、僕の方は本当にアキラから目を離すことができなくなる。勿論、余計なことを考えている暇なんて無い。
「余計なことは考えなくていい」「ボクのことだけ考えて」『ついておいで』って、その手段が強制的すぎるだろう…。
アキラによるセコンドの鋭い和音連打が始まる。
なんということだ、テンポが練習時よりもかなり速い。
アキラに限って、緊張のせいだということは絶対にない。意図的なものだ。
やってくれる――
アキラの両腕に被さって、四オクターブにわたる和音を力強く放つ。そしてその体勢のまま、三オクターブにわたる奇抜なメロディラインを、鋭いリズムで響かせる。
やがてプリモの旋律が消え、セコンドのリズミックな連打もトリルを交えつつ終わりを迎える。
一瞬の静寂。
ペダルに右足を置き、僕の手が静かに高音の鍵盤を抑える。
ここは僕の独擅場。振り回されているだけの僕じゃない。
隣に座っている傍若無人なパートナーに見せつけるつもりで、高音のソロを繊細に、繊細に紡ぐ。
リズミカルな部分と、この中間部の穏やかさの対比がこの曲の特徴だ。
以前〈ワルツ14番〉を弾いた時とは比べ物にならない打鍵のすばやさで、不安げなメロディを優しくクリアに響かせる。
パッセージの一音も疎かにしない。
ペダルからそっと足をずらしてアキラに譲り、ソロ部分を終える。
その後息付く間もなくフォルテッシモで爆ぜるように鍵盤を跳ね、爆発的なクライマックスを迎え、勢いそのままに最後の一音を鳴らした。
アキラによる突然のテンポ変更が、いい方へ転がった。これまでで最も勢いのある、いい演奏ができたと思う。
呆然としている暇はない。マ・メール・ロワが残っている。
二人同時に鍵盤に手を置く。今度は呼吸を合わせてくれるようだ。
第四曲〈美女と野獣の対話〉。
セコンドはワルツ風の伴奏をし、プリモは穏やかな旋律を奏でる。
しかし低く不穏なメロディが登場して緊張感が高まり、主題に戻ったあともどこか不気味さが残る。再び不穏さが高まって、高まって──
美女は次第に醜い野獣の優しい心に惹かれ、求婚を受け入れる。そして、野獣にかかった魔法も解ける。
僕は手のひらを上に向けて、優しく
このグリッサンドが、野獣にかかった魔法を解く鍵だ。
美女の足下には、魔法が解けて一人の王子が膝まずいている。王子は魔法を解いてくれた美女に感謝し、そして穏やかな旋律が戻ってくるのだ。
残るは一曲。僕の心は驚くほど凪いでいる。
第五曲〈妖精の園〉。これはペローの『眠れる森の美女』から。愛の神のみちびきにより登場した王子が、眠りについた王女にくちづけをするシーン。
ラヴェルの指示はLent et grave(ゆっくりと荘重に)。
天国的な旋律をゆっくりと、重みを持たせて弾いていく。
王子と目覚めた美女は結ばれ、妖精と国中の人々が2人を祝福する。連続するグリッサンドめ、このフィナーレを表現する。
ああ、終わってしまう。 二人で奏でるこの時間が、ずっと続けばいいのに。
僕の奏でる音楽とアキラの奏でる音楽が、一つの音楽を作り上げている。まるで奇跡のようだ。
いや、奇跡に違いない。僕らが生み出す音楽は、いつだって一度きりの奇跡。同じモノは二度と生まれないのだから。
最後の音を鳴らした二人の腕が、宙に浮く。
――音が消えた。
その瞬間、大きな拍手が沸き起こる。
気が抜けて、僕はぶらりと腕を下ろした。やり切ったのだ、という実感がじわじわと湧き上がってくる。
「ショウくん。ぼんやりしてないで、拍手に応えないと」
アキラに言われて、慌てて立ち上がる。お辞儀をすると、拍手は一層大きくなったのだった。
2
着替えを終えて、僕らはなんとなく近くの空き教室に入った。
僕は適当な椅子に座り、アキラは机に手をついて立っている。
「楽しかったね」
「うん。もっと弾きたかった」
僕がそう言うと、アキラは目を丸くした。
「…そこまで言ってくれるなんて」
「それよりさ、なにあれ? 連弾ソナタの時、僕のこと完全に無視してたよね」
「そうだった? 気分が乗っちゃったのかな。あまり記憶にないな」
「よく言うよ」
アキラは悪びれる様子もなく、肩を
僕は呆れ半分、その意外性に対する面白さ半分で言葉を続ける。
「アキラって、驚くほど強引になる時があるよね。今日もそうだけど、僕をLSP団に入れるために
「ごめん」
アキラは僕の言葉を遮って、
「アキラ……?」
「終わったから、まず謝らせてほしい。ボクはショウくんにエゴを押し付けたんだ」
「僕は自分の意思でやるって決めた。あの、初めてアキラの演奏を聴いた日に。アキラのエゴなんかじゃない。だから、もう謝らないで欲しい」
僕は即座に否定した。
「それに、感謝してる。ピアノってやっぱり最高に楽しいよ。それを思い出させてくれたから…ありがとう」
僕は照れ気味なのを隠すために、目線を下に向けて言った。
アキラの反応が無いのを奇妙に思い視線を向けると、突然僕の視界が暗くなった。
「ボクも、ありがとう。ピアノが好きだなって、今までで一番思った」
左耳に息遣いが届く。
僕の視界を覆って、顔を見せないようにして、アキラは誤魔化しているつもりなのだろうか。
目線を上げた一瞬、アキラの目が潤んでいたのを、僕は確かに見てしまっているのに。
どんな想いが彼をそこまで突き動かしているのか、わからない。
思えば、出会った時からわからない事だらけだ。
僕は以前アキラと出会ったことがある? いや、有り得ない。
ここまで存在感のある人物も珍しい。一度会えば、きっと印象に残っているはずだ。
しかし、最近どうも胸に何かが引っかかっている。
この違和感の正体を、僕はいつか知ることができるのだろうか。
プーランク/四手のためのピアノソナタ(全楽章)
https://youtu.be/3LeUEBKmDTY
ラヴェル/マ・メール・ロワ より パゴダの女王レドロネット 、美女と野獣の対話、妖精の園
https://youtu.be/tVRM7hp2J8c
(以下のリンクをブラウザにコピーアンドペーストすると、第四曲〈美女と野獣の対話〉から再生されます。)
https://youtu.be/tVRM7hp2J8c?t=202
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