3-3 Élégie~エレジー~
1
〈ワルトシュタイン〉の興奮冷めやらぬ観客席。
ひんやりとしていたホールが、熱気の残響に包まれている。
「すご…」
「無敵の王子様、完全復活じゃない」
そんな中で一人、アキラだけが鋭い冷気を纏っていた。
手を脚の間で組み、精神統一するかのように軽く俯いて目を閉じている。
二曲目は〈スケルツォ第一番〉。
次はどんな衝撃を与えられるのか。〈ワルトシュタイン〉と同等か、それ以上か、はたまた一曲限りで終止してしまうのか。
ふいに顔を上げ、すっと鍵盤に触れた。
瞬間、腕を振り下ろす。
一度目は悲鳴。
二度目は絶望。鋭くも重々しい打鍵が、体の奥に重く響く。
高音から低音に下りて伸ばされた、この強烈な二つの不協和音。
一曲目の衝撃を更新し、二曲目へのプレッシャーを払拭するには、この二つの不協和音だけで十分だった。
せわしなく上下を動き回り、焦燥感を掻き立てる高速のパッセージ。まるで緊迫感そのものが渦巻いているかのようだ。
急速なパッセージの中にところどころ不協和音が現れるが、アキラの音は決して耳障りではなく、くすんだ響きが言いようのない中毒性を誘う。
〈スケルツォ〉はイタリア語で〈冗談〉の意だが、この〈スケルツォ第一番〉に滑稽さは微塵も感じられない。
むしろひたむきに憤怒・激情を訴える曲調で、強烈なパッセージと不協和音によるその効果を、アキラはこれ以上ない程に演出している。
彷徨うかのようなフレーズが現れたのも
そして失速することなく、またあの強烈なパッセージへ。
握りしめた拳が、じんわりと汗ばんでいた。
王子様なんて冗談じゃない。
華奢な体ひとつで場を深刻さで染め上げ、支配する魔王だ。
中間部には、ポーランドのクリスマス・キャロルの『眠れ、幼子イエス』が引用されている。
激しい主題とは対称的に「天国的」と称される、
叙情的な旋律で、空間の支配者はたちどころに緊張を安息へ塗り替えた。
この心地よい音に身をあずけ、いつまでも
主部でもそうだったが、アキラの演奏は激しさにも甘さにも溺れすぎず、どこか気高い。
そのためだろうか、執拗な繰り返しの多い曲でも胸焼けを起こさない。
再び悲鳴と聞き紛うような不協和音が鳴り、最期へと疾走する。
コーダの、両手で激しく連打される密集和音。猛烈な叫びが、緊迫感をこれでもかと高める。
アキラの両手の指の動きは、完全に残像でしか追えない。
猛然と奮う和音。
アキラの頭も跳ねる。
最後の一音がホールを震わせた。
アキラの手が完全に鍵盤から離れると、洪水のような拍手が起こった。中には立ち上がっている人もいる。
登場から今までの約二十分間、ホールの空気を支配し続けた魔王はどこへ行ったのやら。アキラはいつもの穏やかさを浮かべ、観客の称賛を受けていた。
2
昨日のアキラの演奏の後、僕は外山と会うこともなくすぐに帰宅した。
あの圧倒的な演奏の後に他の演奏を聴く気にはなれなかったし、仕事を終えて迎えに来てくれた父を、あまり待たせたくなかった。
そして次の日からまた学校が始まる。月曜日から寝不足だとたまらない。
結局、アドレナリンがドバドバ出ていたと言うのだろうか、昨夜は残念ながらあまり眠れなかった。
本当はあの後、すぐにでもアキラがいるであろう控え室に行って…。
行って、どうしたかったのだろう。わからなかったから、そのまま帰ってしまったのかもしれない。
しかし、もう心は決まっている。
教室のドアを開ける。
「アキラ…」
アキラは化学の見慣れた参考書を眺めていた。
「おはよう、ショウくん」
「出るよ。LSP団」
「…ショウくん」
昨日、アキラの演奏を聴いて。
あんなのと僕が連弾なんて冗談、と思わなかったといえば嘘になる。
でも、信じてみようと思った。
あんなとんでもないピアノを弾くアキラが、わざわざ僕を選んで〈連弾〉なんて言い出す。気まぐれかもしれない。意味なんてないのかもしれない。
でも。
アキラのピアノへの
彼を無条件に「信じよう」と思った。
そして、じきに消えると思っていた僕の中の種火が、また燃え上がるのを感じた。
目的は相変わらずわからないが、アキラが言うのならば。
味気ない僕で構わないのなら、
この種火が消えないうちは。
ショパン/スケルツォ第1番 Op.20
https://youtu.be/wjdaNEqWWHo
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