3-2 Sonate~ソナタ~
僕は落ち着かない鼓動を鎮め、観客席で彼の登場を待っていた。
さすがg級の地区本選ともなると、ハイレベルな、聴きごたえのある演奏が集まっている。
だが、それらが僕の琴線に触れることはない。
アキラの演奏への期待と、自分にも不明で不気味な感情が、僕の脳を支配する。目の前で奏でられている音に集中しようとするほど、脳内が彼に埋め尽くされる。
ここまでの奏者に非は無い。ただ、耳を介して届いているすぐ近くの音さえ、どこか遠くで鳴っているように感じられてしまうのだ。
『四番。高峯アキラさん。ベートーヴェン ピアノソナタ第二十一番〈ワルトシュタイン〉第一楽章。ショパン スケルツォ第一番』
来た。
会場は相変わらず静寂に包まれているが、にわかに緊張感が増した。会場全体が、期待と恐れをもって高峯アキラを待ち構えている。その緊張が、ピリピリと肌を刺すように伝わってくる。
そうか、あの不気味な感情。僕は、怖かったんだ。アキラの演奏が僕を何か変えてしまう予感がして、恐ろしかった。
純粋で、とらえどころがなくて、人を傷つけず、柔和で、本心が読み取れなくて、どこか飄々としていて、かと思えば、時折見せる予想外の執着。
そんなアキラのままで、味気ない僕を、何か変えてくれる?
アキラが現れた。
柔和な表情は消え去り、他を寄せつけない張り詰めた空気を放っている。
硬い面持ちのまま椅子を調節し、腰掛けた。一瞬脱力したかのように宙を見つめ、目を閉じる。
これから演奏される一曲目の〈ワルトシュタイン〉というのは通称で、ベートーヴェンがこの曲をワルトシュタイン伯爵に献呈したことに由来する。
アキラは全意識を己の指先に集中させているようだ。そして、ふいに第一音を放った。
第一主題。この曲は低音の同音連打から始まる。ピアニッシモの低い和音と、高低を行き来する右手によって奏でられるメロディーが徐々に膨らみ、これから訪れる興奮の場面を期待させる。
ほんの数小節で、会場の雰囲気が変わった。
美しく揃った、端正なトレモロ。
烈々たるパッセージ。
圧倒的。その言葉が頭に浮かぶ。
曲調が変わり、コラール風の第二主題。主旋律を際立たせ、レガートで和声を歌い上げる。
アキラの視線は鍵盤に注がれるばかりでなく、空間に浮かぶ音の粒を捉えているかのように、
そして、第一主題のモティーフによる展開から始まる展開部。
急激な強弱の変化はベートーヴェンの特徴の一つとも言えるが、この展開部では顕著だ。
急激に強弱を変化させるのは、徐々に強弱を変化させるのとは比較にならないほど難しい。
タッチや打鍵の速さなど指先だけに注意を払うのではなく、手首や腕も上手く使う必要がある。
だが、アキラは見事に強弱を操っていた。
ピアノからクレッシェンドしてフォルテになったかと思うと、次の瞬間にはピアニッシモに。この急激な変化が、絶妙な緊迫感を生み出す。
視線が、呼吸が、意識が、彼の奏でる音によってコントロールされている。
短調、長調、短調と目まぐるしい転調。
緊迫感のみならず、言いようのない高揚感をもたらし、展開部は集結へと向かう。
地を這うようなクレッシェンドでエネルギーを増していき、ついにフォルテッシモへ辿り着くと、それでもさらにクレッシェンド。
思わず固唾を飲む。
間髪入れずに、第一主題の同音連打がピアニッシモで再現される。クライマックスから一気にピアニッシモになるのが非常に劇的だ。
再現部は終わりそうで終わらない。主題を再現しながら転調を繰り返す。
橙の炎だ。
激しく燃え上がる炎ではない。
ただ、色が見える気がした。
熱量を持った初夏の夕焼けが、空間を包み込んでいるみたいだ。
僕は金縛りにあったかのように、身動きが取れなくなっていた。
高峯アキラ。
突然現れて、僕の日常にすっと溶け込んだ。容姿端麗。頭脳明晰。天分豊かなピアニスト。
悶々と劣等感や敗北感を覚えるようなものではない。
むしろ清々しい。圧倒的なものを前に、ただ呆然として、その存在を認めることしかできない。それ以上の選択肢が無い。
僕はアキラの演奏に、完全に惹き付けられていた。
聴く前の恐怖は、もっと聴いていたいという渇望になっていた。
音楽は偉大で、ある意味では恐ろしい。聴く人の気持ちを、行動を、人生を、変える。
締めくくりの第一主題。ピアニッシモからフォルテッシモまで駆け抜け、最後の和音が力強くホールに、僕の身体に、響き渡った。
ベートーヴェン ソナタ 第二十一番Op.53「ワルトシュタイン」 (全楽章)
https://youtu.be/wSs-2NDG4Ao
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます