3 The Prince of piano
3-1 Passepied~パスピエ~
1
六月も終わりに差し掛かった日曜日。
横浜みなとみらいホールの小ホールは、少し怖いほどの静寂に包まれていた。
ステージ上にはグランドピアノが一台置いてある以外、スポットライトもフラワースタンドも無い。
演奏前後に拍手が起こることはなく、淡々と演奏が行われていく。
久々に感じるコンクール独特の雰囲気に、始めは圧倒されかけた。
しかし、地区本選ともなるとレベルが高く、安定した演奏をする人がほとんどだ。こちらまで緊張する、ということはなくリラックスして聴くことが出来た。
今はf級五番の演奏が終わったところだ。外山は七番。
外山が地区予選で演奏したのは平均律と、ラヴェルの〈リゴドン〉。この地区本選では別の曲が演奏される。
六番の演奏が終わり、奏者がステージから捌けた。
『七番。外山明里さん。ベートーヴェン ピアノソナタ第十七番〈テンペスト〉第三楽章。ショパン エチュード Op.10-5 〈黒鍵〉』
藤色のロングドレスに身を包んだ外山が、ステージの袖からしっかりとした足取りで出てきた。
一曲目が始まる。
〈テンペスト〉三楽章は激しさと流麗さを併せ持ち、八分の三拍子のやや速いテンポでほとんど休みなく音符が流れる。
コンクールでは一度のミスタッチも許されないというのは、小中学生くらいの部門までだ。それ以上になると単純に課題曲が難しくなるため、少々のミスタッチは付き物になってくる。
もちろん、ミス無しで音楽性もあるというのが理想なのは言うまでもない。
外山の演奏は瞬発的な強弱がしっかりついていて、ミスタッチも少ない。
〈テンペスト(嵐)〉という通称は、弟子のアントン・シンドラーがこの曲とピアノソナタ第二十三番の解釈についてベートーヴェンに尋ねた時、「シェイクスピアのテンペストを読め」と言ったことに由来すると言われている。
緊張感を保ったまま嵐のように、時に明るく、時に自問自答するかのようにしながら曲が進んでいく。
そして嵐は遠ざかり、ふっと消えた。
二曲目。
ショパンのエチュード(練習曲)は練習曲という名を持ちながら、作品一つ一つが洗練された名曲で、要求される技術はそのほとんどが極めて高度だ。
〈黒鍵〉はその名の通り、右手はある一音を除いて黒鍵だけを弾く。
弾く人によって異なるが、エチュードの中では標準程度の難易度だろうか。
左手が三拍子を刻み、右手が軽やかに黒鍵を駆け回る。
技術のない奏者だと打鍵が甘くたるんだ演奏になったり、打鍵が重すぎてガチャガチャと五月蝿い演奏になってしまったりするところだが、外山は腕と手首をしなやかに使った粒の揃った音で、きちんと曲の美しさを出せている。
心地いい音色だ。
演奏が終わり、外山は安心したように微笑んで立ち上がった。
僕がホールを出て間もなく、ワンピースに着替えた外山がやって来た。
「ショウ」
「お疲れ様」
「ありがとう。本当に来てくれてたんだ。もう帰るの?」
「いや、まだ。昼食をとりに行こうかと思って」
「だよね。高峯くんが出るのは夕方だし」
「うん。参考書を持ってきたから、混んでなかったらそれまでファミレスで勉強してようと思ってる」
「ショウは本当に真面目で努力家だね。そういうところは尊敬してる」
「『そういうところは』? なんだか含みのある言い方だね」
「少し真面目すぎるかも。何か抱え込んでるんじゃないかって、たまに心配になる」
「それはありがとう。大丈夫。僕は手ぶらが楽だから、背負い込む派なんだ。今みたいにね」
リュックサックを背負った両肩を
「いつもそうやって雑に、はぐらかす……。そういうことじゃないって、わかってるくせに」
「外山はこれからどうするの?」
「私は両親とピアノの先生がホールの客席にいるから、今演奏してる人が終わったらとりあえずそこに行く予定」
「そっか。本当にお疲れ様」
「またね」
2
ファミレスで昼食を済ませたあと、市立図書館へやって来た。
休日の飲食店はどこも繁盛していて、長居しようという気にはならなかった。アキラの演奏まで四時間以上あったので、少し歩くものの図書館があったのは有難い。
自習室に行き、参考書を開くより先にコンクールのプログラムを開く。
f級までは課題曲があり曲の演奏順も決められているが、g級からは選曲の幅がかなり広がる。
アキラの演奏予定曲はどちらも奏者の技量が問われる難曲だ。選曲から技術面への自信がうかがわれる。
なんにせよ四時間後には演奏を聴けるのだ。
僕はプログラムを鞄にしまい、参考書に意識を集中させたのだった。
ショパン/エチュード 変ト長調 Op.10-5「黒鍵」
https://youtu.be/G10qXpF3cqI
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