2-3 Valse~ワルツ~
1
LSP団に入るか否かは冷静になってから考えると言った日。
帰宅後、僕は数週間ぶりにピアノの蓋を開けた。
アキラの言う通り、やめてから全く弾いてない訳では無い。でも、気分の時だけ適当に弾く程度だ。それも、ピアノ現役時代にはほぼ弾かなかったポピュラーミュージックばかり。
ピアノだけに限らないが、毎日ある程度の時間をかけて練習している場合、一日弾かないだけで感覚は失われる。だから、ピアノを習っていた十年間は余程のことがない限り毎日練習した。
やめた後は、胸にぽっかりと穴が空いたようで、日々を重ねるほど後悔は大きくなった。
独学でなら、再開する機会はいくらでもあった。
そうしなかったのは、自分の腕が鈍っているのを直視するのが怖かったからなのか。いまさら再開しても意味が無いと、意地を張っていただけかもしれない。いや、本当のところは…。
もう忘れたかった。
しかし、今こそ向き合う時だ。
意を決して、鍵盤に手を置く。
〈ショパン ワルツ第十四番 ホ短調 遺作〉。レッスンで見てもらったことはなく、小学生の時に自主的に譜読みした曲。
とりあえず、その頃と同じ速めのテンポで弾くことにした。
華やかなアルペジオの序奏から始まる。始めは遅く、頂点へ向かって徐々に加速させる。
音が僅かに濁った。ペダリングはクラシックにおいて特に繊細で、タイミングや踏む深さを少しでも誤ると途端に音を濁してしまう。
奇想曲風の主題に入る。正確に、軽快に…。
同音の連打でところどころ音が重なってしまう。ピアノは鍵盤が押されると連動してハンマーが弦を叩き、音を出す仕組みだ。そのため、押した鍵盤とハンマーが十分に上がり切る前に再び鍵盤を押しても、音が出ないのだ。
そして、dolce(優しく)、legato(なめらかに)と指示された部分に差し掛かり、僕は次にくるフレーズに不安を募らせる。
ここからは左右共に音符が広範囲にあり、右手にはオクターブ幅のポジション移動が、左手には軽い跳躍がある。
音を外さないよう、慎重に鍵盤を捉える。
ここまで、技術面よりも表現面の不安の方が大きい。スローテンポな曲を選んだとしても、イメージした音が出せなかったら──勢いで誤魔化せないぶん、かえって興醒めな演奏になってしまうだろう。
転調する前に、鍵盤から手を下ろした。
それから一週間、昔やっていた『ピアノのテクニック』やツェルニーをメインに極基礎的な練習をした。
一日一時間程度しかできないが、徐々に感覚が戻ってきた。左手は指がかなり動かなくなっているが、右手はそれなりに動ける。
小学生の僕の方が、まだマシな演奏をしていた。でも、練習している時間は思った以上に充実していた。
やった分だけ成果が出るのが嬉しかったし、それが勉強のストレス発散にもなって生活にメリハリがついた。
だが、こんな調子では連弾相手であるアキラの足を引っ張ってしまう。
僕の演奏でアキラの評価が下がるというのは自惚れだと思うが、とにかく足でまといにはなりたくなかった。
あの日以来、アキラが僕にLSP団の話を振ることは一切ない。
あんなに必死だったのに、僕の答えが出るのを律儀に待っているのだ。
どうやって断ろうか。
どうすれば短期間で演奏レベルを上げられるだろうか。
相反する二つの問題に、同時に頭を悩ませるのだった。
2
六月も終わりに近づき、学校祭まで約一ヶ月となった。
「ディーラーの衣装、揃った?」
「黒いスラックスと白いワイシャツ、黒ベストだよね。持ってきてるよ。外山の方にも、蝶ネクタイ届いたんだよね?」
「バッチリ。じゃあ一回着てみて確認しようか」
「了解」
その場にいるのは僕だけだったので、とりあえず僕が着てみることになった。
外山から蝶ネクタイを受け取って、男子トイレで私服から衣装に着替える。
ここは私服校だ。どんな服装・髪型で過ごそうが、一切咎められない。
着替えて教室に戻ると、外山は大袈裟に「おおー」と声を上げた。
「いいね。様になってる。でも…」
「でも?」
外山はわざとらしく顔を
「手袋があった方が絶対キマる」
「それは勘弁してほしい。暑すぎる」
「わかってるわよ。うん、本当にいい感じ。これなら女性客のテンションも上がるはず」
外山は満足そうに微笑んだ。
「ショウってよく見るとかわいい顔してるんだよね。肌綺麗だし。あ、眼鏡かけたらもっとウケるんじゃない?」
「そのせいもあって、小さい頃はたまに女の子に間違えられてたらしいね。で、なんで眼鏡?」
「ショウみたいな中性的な顔には、絶対に眼鏡が似合う。まあ、私が眼鏡好きなだけなんだけどね」
「僕、伊達眼鏡とか持ってないけど」
「私が貸すわよ。え、ショウ、眼鏡かけてくれるの?」
「別に構わないよ」
「やったあ。ディーラーに一人くらい眼鏡キャラがいてもいいと思ってたのよね。明日持ってくる」
「待って」
スキップでも始めそうな勢いで立ち去ろうとする外山を引き止める。
「何?」
「毎日コンクールの地区本選って、いつ?」
「次の日曜。見に来るの?」
「うん」
「じゃあ、あとで会場までの地図送っておくね」
「ありがとう」
アキラの演奏を、初めて聴ける。それも、コンサートホールの客席から。
微かに速まる心拍に、気が付かないふりをした。
ショパン/ワルツ第十四番
https://youtu.be/OfZlHVWys6w
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