1-2 Fugue~フーガ~
1
長めの回想を終えた僕は、アキラが出ていった教室で一人の状態になっていた。
この時間は理系の地歴の選択授業をやっている。僕は二年生の時に地理Bを履修したが、三年生になってからは苦手な英語に時間をかけようと思い選択しないことにした。アキラは地理Bを選択しているはずだ。
学校案内をした日から、僕ら二人は順調に打ち解けていった。一ヶ月が経ち、さっきのようにぞんざいな態度もとれるようになった。
しかし一方で、僕はまだアキラという人間を掴みきれていなかった。
アキラは予想以上に成績優秀だった。五月に行われた校内テストで三位だったのだ。この高校で三位ならば、目指せない大学は無いはずだ。
転校生で美形、加えて成績優秀。男女関わらず学年中がアキラに興味津々といった様子で、特に三年三組の生徒からは一目置かれている。
アキラは何かを鼻にかけることは絶対にないし、誰に対しても誠実な対応をした。だが、アキラはどこか一線を引いて接している。
それはクラスの皆も感じているようで、互いに適切な距離を保って良い関係を築いているように見える。
だが僕に対しては違った。
アキラは受け身のスタンスを維持していたが、僕に対してだけはアキラの方が距離を詰めてきた。
皆が「高峯くん」と呼ぶのに対し、僕だけが彼を「アキラ」と呼ぶ。業務連絡以外で彼が能動的に話しかけるのも僕だけ。
僕はこの学校においては特段優秀というわけでもないし、クラスでも目立つ方ではない。
アキラはいわゆる良い人で、この関係になんら文句はない。だが「なんで僕?」という疑問は常にあり、心のどこかで僕を気後れさせていた。
その時、ドアを開けるガラガラッという音が響き、教室に外山が入ってきた。
教室の後ろに備え付けられた個人ロッカーを開いて、何かを探している。この時間も外山は音楽室でピアノを練習しているはずだから、楽譜でも取りに来たのだろうか。
「あったあった」
お目当てのものを見つけて振り返った外山の腕には、全音の楽譜が抱えられていた。そして僕とばっちり目が合って「初めて気がついた」という様子で目をぱちくりさせて一言、
「いたんだ」
と言った。
「ずっといたよ…。外山はこれからまた練習?」
「うん。さっきまで楽典の勉強をしてたんだけど、やっぱり練習したくなって」
「音大の受験って、実技だけじゃなくてソルフェージュとか楽典の試験もあるんだっけ。大変そうだなあ」
「ううん。ショウだって勉強大変そうじゃない。私なんて英語と国語しか使わないし」
「学力試験もあるんだね。一応はこの高校にいるんだし、他の受験生に差をつけられる部分なんじゃない?」
「実はそうでもないの。実技が全て。ピアノが得意で勉強は苦手な人も
高峯くん。その言葉を発する時、外山の声は若干の興奮を含んでいた。
「高峯くん、まさかあんなに勉強できたなんて。コンクールに出ながら相当ピアノの練習をしているはずなのに、いつ勉強してるんだろ」
ここで僕は会話の流れに乗ることにした。
「ねえ外山。アキラって今までどれくらいコンクール出てるの?」
アキラがピアノの面でも勉強の面でも秀でた人物であるというのは認識しているが、恐らく、彼の優秀さは僕の想像を超えているはずだ。アキラのそばにいて、そう肌で感じることがある。
だけど、アキラが自身の輝かしい経歴を自ら語ることは無いため、彼がピアノの実力者であることはクラスでもほとんど知られておらず、皆の前で話題にするにはなんだか気が引けていた。
でも今この教室にいるのは僕と外山だけ。外山のことだからきっと大体の経歴は抑えているはずだ。
「高峯くんの受賞歴ね。まず、小学五年生の時にジュニア音楽コンクール連弾部門小学校六年生以下の部で全国大会銀賞。翌年、同部門で全国大会金賞」
最初は連弾に力を入れていたのか。
「ここからはソロがメインになってくるわ。中学一年生の時にジュニア音楽コンクール中学生の部で優勝。中学二年生の時に全日本クラシックコンクール中学生の部で一位と都知事賞」
「まってまって、もう少しゆっくり」
「ごめんごめん。でもまだ続くわよ」
「中学三年生からだね?」
「うん。中学三年生の時に毎日コンクールf級(高校三年生以下)全国大会金賞。ウィーン国際音楽祭に出演」
「中学生でf級金賞ってそんなにあることなの?」
「トップレベルの人たちは早熟だから。大半の人は自分の学年に合わせた級にエントリーするけど、各級で金賞や銀賞になるような人は低年齢になることが多いの」
それもそうか。全国優勝するような人は、技術も表現力も、幼少期からずば抜けていた人が多いだろう。それならば、同年代よりレベルの高い部門にエントリーして当たり前だ。
「で、続きね。高校一年生の時に毎日コンクールコンチェルト部門でベスト賞。高校二年生の時に全日本クラシックコンクール高校生の部三位。今年は八月に全国大会がある毎日コンクールに出るはず」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ」
「私のピアノの先生と高峯くんの先生が仲良いのよ」
「へぇ」
ここまで実績を残しているのだ。アキラも音大に進むのだろうか。
「わかった? 高峯くんはすごい人なの。二人仲良いみたいだし、この機会にショウもまた……」
「関係ないだろ、それは。それより、もう音楽室に戻った方がいいんじゃない」
「そうだ! 練習時間! じゃあねショウ」
「うん。引き留めて悪かった」
ばいばい、と手を振る。ところが外山はすぐに引き返してきた。
「ショウ。放課後に十分だけ、私の演奏聴きに来てくれない? 私も出るの。毎日コンクール」
2
放課後の清掃を終えて音楽室に行くとすでに外山がいた。
「ごめん、掃除があって」
「ショウ! 来てくれてありがとう。地区予選が今週末なの。人前で演奏するのに慣れたくて」
「アキラは呼ばなくてよかったの?」
「そんなの畏れ多くて無理だよ」
「へえ、そういうものなんだ」
「たとえば、ショウは数学が得意みたいだけど、アインシュタインが数学の添削してくれるって言ったらどう? 畏れ多くて無理じゃない? 」
「畏れ多くてというより、もう生きてないから無理。あとわかってると思うけど、アインシュタインは物理学者だよ。外山も数学得意じゃなかったっけ?」
「知ってるわよ。有名な数学者がパッと思いつかなかっただけ……。数学は苦手じゃないけど、それと数学者についての知識は関係ないじゃない」
「ガウス」
「じゃあガウスが生きていたら? 」
「ドイツ語がわからないから無理。日本語は絶対通じないだろうしね」
「もう。からかわないでよ」
「からかうのも、仮定の話をするのも、同じくらい面白いね……」
「またからかってるでしょ」
外山はピアノ椅子に腰かけてふーっと息を吐き、鍵盤の上に手を置いた。
〈バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻5番 ニ長調〉。この作品集には一巻と二巻があり、それぞれ24の全ての調による前奏曲とフーガで構成されている。
バッハが生きた時代にピアノはまだ存在しておらず、この曲もチェンバロやオルガンといった鍵盤楽器のために書かれた。チェンバロやオルガンはピアノのように打鍵の強さで音に強弱をつけることはできない。
外山の演奏は当時の楽器を意識して抑揚をおさえペダルを使わない、コンクールではスタンダードな演奏だった。
しなやかに音を繋ぎながらも一つ一つの打鍵を際立たせ、立体的に響かせていく。理系の外山には向いている作業のはずだ。
フーガの最後の音を鳴らすと、鍵盤に沈みこんでいたすべらかな手がふっと離れた。
バッハ/平均律クラヴィーア曲集第1巻第5番BWV850
https://youtu.be/o8mu67WYX3k
参考:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/平均律クラヴィーア曲集
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