出会い、鬱の華

増田朋美

出会い、鬱の華

出会い、鬱の華

「はあ、えーと、そうですか。」

と、影浦は、一寸溜息をついた。

「だから、もうこの子をこちらに通わせるのは、やめたいのです。もう、だんだんよくなってきていると思いますし、少しづつですけれども、学校に行きたいと言い出すようになっております。だから、良かったのではないかと思いますので、もうこちらに通わせるのは、終わりにしたいと思いますの。」

という、母親の口調は、どこか、世間体を気にしているような感じがあった。確かに、こういうところに通わせるのは、一寸勇気が要るというのは本当なのだが、同時に早く終わった方がいいに越したことはない。

「もう、半年も通っているんですし、鬱はよくなっていると思います。少しですけど、学校にいきたいと言い出しましたので、治療は成功したという事で、おしまいにしたいのですけれども。」

と、母親は、隣に居る、小さな少女を見た。小学生の小さな少女だった。名前を、佐野美香ちゃんという。

「しかし、美香ちゃんは良くなったとは言いましてもですね。鬱と言いますものとはまた違って、躁転というものがあるのです。そうなると、今度は、あれほどふさぎ込んでいた患者さんが、急に動きが活発になって、一日中遊んでいても平気という状態になるんですよ。」

「それが、回復したという事ではありませんの?」

影浦がそういうと、美香ちゃんのお母さんは、そういう風に聞いた。

「そうなんですけどね、人間というのは不思議なもので、それがひどすぎるところまで行ってしまうことがあるんです。変に遊びすぎて、疲れ切ったような雰囲気を感じさせないようになって、大量にお金をつぎ込んでしまうとか、そういう風になってしまうことがあるんですよ。美香ちゃんがそうなってしまわないか、観察しなきゃいけないので、もうちょっと、こちらへ通院してください。よくなったからと言って、完全に、良く成ったという事は言い切れないんですよ。」

影浦がそういうと、美香ちゃんのお母さんは、何だか変な顔をした。そんな事、あり得ないとでも言いたげな顔だ。

「そういう事があるものですから、もう少しばかり、通院を続けてくれませんか。こういうことは、急げば回れです。回復を急ぐというのなら、暫くゆっくり治療をする、という事が一番大事なんですよ。」

「そうですけれども、、、。」

美香ちゃんのお母さんは、まだ世間体を気にしているようだ。確かに口にだして言いにくい診療科に通っていることは認めるが、もう少し美香ちゃんの事を考えてあげてほしいなと思う。

「おかあさん。世間の見てくれとか、体裁とか気にしないで、今は美香ちゃんの事を考えてやってくださいよ。」

影浦は、美香ちゃんがこちらに来院した日を覚えている。美香ちゃんは、まるで魂の抜け殻みたいな顔をして、診察室にやってきたのだ。確か、小学校に通い始めたのだが、どうしても小学校になじめなくて、こういうことになってしまったらしい。大人のうつ病もよくあるが、最近は小学生の子供がうつ病になる事もよくあるので、影浦は、美香ちゃんにうつ病だと診断した。そして、暫く美香ちゃんに、学校を休んで、その気になったら別の学校に通うことも、検討してくれと伝えた。お母さんは、わかりましたと納得してくれたけれど、果たして今の態度だと、美香ちゃんの事を本気で考えているとは、思えないのだった。

「美香ちゃんは、学校に行きたいと思うの?」

影浦は今度は美香ちゃんに聞いてみる。

「行きたくない。」

美香ちゃんは、小さな声で答えた。

「でも、美香は少しずつ遊ぶようになってきているし。一日中寝てばかり居るという事もなくなりました。もう、薬を飲ますことも、正直、したくありません。美香をここへ通わせるのは、やめた方がいいと、」

「其れは、おかあさんの意思ですよね。ご主人は何とおっしゃっているんですかね。」

「ええ、主人は、ちゃんと美香を治すまで、学校には行かせなくていいんだと言っています。でも、そんなのんびりした態度をとってたら、美香の学力が遅れてしまいます。ですから早く、学校に戻して、学力の遅れを取り戻さないと。」

美香ちゃんのお母さんはそういうことを言っている。美香ちゃんは、その隣で小さくなっているのだった。

「学力なんて、こうなってしまったら、どうでもいいことだと思ってくださいよ。それよりも、美香ちゃんの意思のほうが大事なんです。学力何て、別の学校に行って、そこの先生に教えてもらえばそれでいいでしょうが。大丈夫ですよ。それを補ってくれる施設は、今の時代ですと、本当にたくさんありますから。もし、知らないなら、僕が紹介して差し上げましょうか?」

影浦はそういって、机の引き出しを開けた。不登校になってしまった子供さんのためのフリースクールのパンフレットを取り出した。

「例えば、こういうところですよ。ここの施設であれば、シッカリと子供さんの面倒を見てくれるって、大評判です。それとも、学校法人を名乗っているところのほうがいいっていうんですか、それなら、こちらとか。」

影浦は、パンフレットをお母さんに見せた。

「ちょっとご主人と一緒に検討してみてくれませんか。学力の遅れなら、そこの先生がしっかりやってくれますから、大丈夫ですよ。」

「でも、、、。」

と、お母さんはそんな事を言っている。

「美香は、折角、学校に入学して、あたしたちもはなが高いと散々言われてきたのに、そこをやめるなんて、周りの人に何を言ったら。」

結局これか。おかあさんの世間体のためじゃないか。美香ちゃんの事を、思ってくれているなんて、これっぽっちもないじゃないか。

「そうですけど、今はそんな世間体を気にするときじゃないんですよ。それをわかってあげないと。それに、世間体なんて、人のうわさも七十五日というじゃありませんか。」

「でも、美香も私も、一生懸命努力して、受験をしてやっと、あの小学校に入ったんですよ。」

美香ちゃんのお母さんは、そういうことを言っているのだ。影浦は、どうしてお母さんは、そうなってしまうのかな、と、大きなため息をついた。

「だって、美香も私も、それから主人も、本当に一生懸命やってくれました。何よりも、あの名門小学校に入って、一生懸命勉強したいと、口にしたのは美香ですよ。あたしたちは、それを実現しようと思って、一生懸命やってきたのに。それをやめろという事ですか。」

「そうですけれどもね。現に美香ちゃんは、こうなってしまったわけですから、それはしっかり理解しなければなりませんよ。こういう時は、いさぎよく、学校を変わった方が良いと、考えを変えてください。」

影浦に言われて、美香ちゃんのおかあさんは、がっくりと落ち込んだ。

「鬱はね、そう悪いもんじゃないですよ。大体、こういう病気にかかる人は、大人であれ、子どもであれ、環境にどうしてもなじめないという事に、気が付かないからそうなるものなんです。それは美香ちゃんも同じですよ。もし、このままその学校に通い続けたら、美香ちゃんはもっと悪くなってしまうかも知れない。そういうことを知らせるために、鬱が美香ちゃんを食い止めていると考えなおして下さい。鬱というモノも、美香ちゃんにとっては、必要だからかかるんです。だから、学校を変わった方がいいと、鬱が示してあげているんだと、そう考えなおしてください、おかあさんなら、できるはずだ。美香ちゃんがそういう状態だって、考える事だって。」

影浦は一生懸命説得するが、美香ちゃんのおかあさんは、まだ納得できない様子だった。隣で本を読んでいる美香ちゃんを、影浦は、本当に必要なものを出してくれるおとなっていうモノは、そうはいないんだなあという顔で見つめた。

「もし、新しい学校に行くのがそんなに怖いようであれば、だまされたと思っての感覚で良いですから、こちらの施設へ行ってみたらどうですか?」

影浦は、一枚のパンフレットを、美香ちゃんの前に突き出した。赤い屋根の可愛らしい建物で、学校という感じはしない。校庭には、子どもが遊んでいる姿が映っていた。

「子供さんというのはね、こうして楽しそうに遊んでいるのが一番なんですよ。こんなふうに、魂の抜け殻みたいな顔されてちゃ、美香ちゃんは本当に子供とは言えません。それでは、いけないと思ってください。」

「はい。」

もう、うるさいなという顔をして、美香ちゃんのお母さんは、診察室の椅子から立ちあがった。美香ちゃんも、おかあさんに並んで、診察室を出て行った。本当にこの親子、次回の診察で来てくれるかなと、影浦はちょっと不安になったが、それでも、二人に強制的に来させることはできないな、と、思ってしまうのであった。

それから、数日後。武史君は、バラ公園で、絵を描いていた。近くで父親のジャックさんが、武史君の描いている絵を眺めている。確かに武史君の絵は、岡本太郎みたいな絵で、こんな絵を子どもが描くなんて、おかしいんじゃないか、と言われても仕方ない絵だった。

丁度、武史君の足元にボールが転がってきた。武史君は、絵を描く作業をやめて、

「あれ、名前が書いてあるよ。さのみか、、、。」

と、ボールを拾い上げた。すると、急に小さな女の子が、急いで走ってきた。後ろから、若いお母さんもやってくる。美香、美香、そんなに急いで何をやっているの、なんて言いながら、走ってきた。

「あの、それ私のボール、返して!」

と、女の子はちょっと強い口調でそういった。

「はい。そうだね。これは、美香ちゃんのだね。」

と、武史君は、美香ちゃんにボールを渡した。美香ちゃんは、にこやかに笑って受け取った。

「美香ちゃん、人からものをもらったときは、なんていうんだっけ。」

と、お母さんが、ちょっと息を切らしながらそういう。

「ありがとう。」

美香ちゃんはそういって、また遊びに戻ってしまった。

「うん、どういたしまして。」

武史君は、にこやかに笑って、また絵を描く作業に戻ってしまうのかと思ったが、それには戻らないで、美香ちゃんをじっと見ている。美香ちゃんは、お母さんと楽しそうにボール遊びをしていた。

「ずいぶん活発な女の子だねエ。」

と、ジャックさんが言ったところ、

「そうだねエ。かわいいな。」

と、武史君が呟いた。これでやっと武史君も、ちょっと周りの人間に関心を持ってくれたか、とジャックさんもほっとする。

暫く、その親子の観察を続けるが、ジャックさんは、どうもその女の子が、活発過ぎているような気がしてしまうのだった。ちょっと多動でもあるのかなあと思った。しかし、おかあさんのいう事は、しっかり聞いているようでもあったので、そういう訳でも無いのかなと考え直した。

「美香ちゃん、うちへ帰りましょう。」

と、お母さんがそういっている。

「ええ、もっと遊びたいよ。」

美香ちゃんはそういっているが、

「でも、帰らないと、晩御飯に遅れてしまうわよ。」

と、おかあさんが止めたのをちゃんと聞いている。美香ちゃんは、まだスキップしているが、おかあさんのいう事をちゃんと聞いて、ボールを持って一緒に帰っていた。

「可愛いな。僕、美香ちゃんとお友達になれたらいいなあ。」

と、武史君は、にこやかに笑ってそういうことを言っている。ああやっと、友達になりたいという気持ちも出てきたか、と、ジャックさんは、大きな溜息をついた。もうこれまで、誰かと仲良くしたいなんて、一度も口にしたことなんかなかった武史君が、やっとそうなってくれたと考えると、ジャックさんはうれしい気持ちでいっぱいだった。

ところが、その数日後の事である。

武史君とジャックさんが、また公園で絵を描いていると、一人の女性が、血相を変えて飛び出してきた。

「あれ、美香ちゃんのママじゃないか?」

武史君がそういう通り、ジャックさんもその顔は見覚えがあった。確かに美香ちゃんのおかあさんであることは間違いない。

「どうしたんですか?」

気になって、ジャックさんは、美香ちゃんのおかあさんに聞いてみた。

「いえ、美香がいないんです!ちょっとした空きに、何処かへ行ってしまって。美香はどこに行ってしまったのでしょうか!」

となると、単なる多動という訳ではなさそうだ。確かに、小さな子供が不在になると、おかあさんは心配になる。どこかへ連れ去られてしまったとか、そういうことだって考えられるからである。

「居なくなったのは何時からですか?」

ジャックさんが聞くと、

「一時間ほど前です。ちょっと晩御飯の支度をしていたすきにいなくなってしまって。」

と、美香ちゃんのお母さんは答えた。

「僕たちも一緒に探してあげようよ。」

武史君がいつの間に大人の話を聞いていたのか、そんな事を言い出した。ジャックさんも、そうだねと言って、三人で美香ちゃんを探しに出ることにした。とりあえず、バラ公園の中を探しても、美香ちゃんの姿はなく、その近くの喫茶店にも美香ちゃんの姿はなかった。ジャックさんが、警察に捜索願を出したほうがいいのではというと、美香ちゃんのおかあさんのスマートフォンが鳴った。先ほどの喫茶店のマスターからであった。店に来た客の一人が、美香ちゃんによく似た女の子が駅の前に居たという情報をもって来たのである。そこで、三人は、富士駅に行ってみた。駅の掃除のおばさんに聞くと、駅長室に女の子が一人いるという。すぐにそこへ行ってみると、老駅長と美香ちゃんが何か話していた。

「美香ちゃん。」

声をかけたのは武史君だ。美香ちゃんのおかあさんは、もうどうしたらいいのかわからなかったらしく、ただ、涙をこぼしているだけだった。

「ダメじゃないか、ママに心配かけちゃ。」

唯一、彼女を叱ることができるのは、武史君だけであった。

「ああ、おかあさんですか。あの、彼女ですね。何も覚えていないそうなんです。ただ、嬉しい気持ちが続いていて、その勢いでこっちへ来てしまったらしいんですね。」

と、老駅長は、おかあさんにそう説明した。そうなると、単なる多動というだけではなさそうだ。単に多動という事であれば、理由をきちんと話したりすることもあるからである。

「あたし嬉しいの。だから、ずっと動いて居たいの。だから、駅まで来ちゃったのよ。」

美香ちゃんはにこやかに笑って、そういうことを言うのだった。

「ははあ、なるほど。」

と、ジャックさんが、おかあさんにこんなことを言う。

「美香ちゃんは、双極性障害というモノかも知れないですね。」

おかあさんはぎょっとした。それを言うなという顔をする。でも、これは本当の事だから、シッカリ話さなければならない。

「精神科のお医者さんに見てもらって、しっかり薬でも飲んでもらったほうがいいですよ。」

ジャックさんにそういわれて、お母さんはがっくりと落ち込んでしまった。美香ちゃんはまだにこにこしている。そういうところが明らかに病気と判断される材料になるのかも知れなかった。やっぱり、影浦先生の言う通りだったのか。あたしは、何をしてきたんだろう。美香がやっと受験に合格したとお思って、本当に花が高かったのに。それが全部崩れてしまうんだから、、、。

「外出ましょうか。」

と、ジャックさんが、そう静かに言う。老駅長に、丁寧にお礼を言い、全員、駅長室を出た。お母さんは、美香ちゃんの手をしっかり握っていたが、直ぐに帰りたくない気分だといった。ジャックさんは、ちょっとお茶でも飲んで帰ろうかと言い、駅近くの喫茶店に入ることにした。

全員、喫茶店に入って席に就く。マスターがメニューを持ってきてくれたので、全員サンドイッチとコーヒーを頼んだ。美香ちゃんは、まだにこやかな顔をしている。時折、隣に座った武史君の肩をくすぐったりとちょっかいを出していた。武史君は嫌そうな顔をしていなかったが、美香ちゃんは、明らかに躁状態なんだなという顔をしている。

「先ほども言いましたけど、美香ちゃんは、病院で見てもらったほうがいいです。このままだと鬱に戻ってしまって、大変なことになります。」

と、ジャックさんはそっと美香ちゃんのおかあさんに言った。

「そんなに、怖い病気なんでしょうか。単に私は、小学校の受験で疲れているだけの話だと思っていたんですが。」

美香ちゃんのお母さんは、よくわからないという顔をする。というより、受け入れたくないんだという、表情も見えると思った。

「一体、美香はどうなってしまうのでしょうか。折角入った学校も、もう今からでは、勉強についていけないですし、受験に耐えて、これからあたらしい生活を始められると思ったのに。」

「いや、受験自体が相当なストレスだったかもしれない。」

と、ジャックさんは言った。

「じゃあ、美香はそれでおかしくなってしまったとでもいうのですか。」

「ええ、可能性はありますよ。」

美香ちゃんのおかあさんは、前方に座っている、武史君と美香ちゃんを見た。美香ちゃんは、武史君が持っていた、おはじきで楽しそうに遊んでいた。

「美香は、これからどうなってしまうのでしょう。あの、名門校に入って、将来を約束されたような者だったのに。それが全部、崩れてしまうというのですか。そうなったら、あたしはどうしたらいいのでしょう。」

美香ちゃんのお母さんは、自身が思っていることをやっと口に出していったのであった。ジャックさんは、それを、一つ頷いて受け取った。

「いえいえ、僕もうちの武史が、前の学校に行ってた時は、散々悩みました。武史が、変な絵ばかり描くと、学校の先生からおしかりがあって、そればっかり言われてきて、どうしようかとさんざん悩みましたよ。今の学校に来て、やっと静かに生活できるようになりましたが、いまだに良かったのかという、確証はありません。」

美香ちゃんのおかあさんに、ジャックさんは、にこやかに笑って、そう答えを出した。

「じゃあ、学校を変わったことがおありなんですか。」

「ええ、もう世間体も何も気にせず、武史が一生懸命というか、楽しんで過ごせる学校が一番いいのかなと思いまして。」

と、ジャックさんのいう言葉に、美香ちゃんのお母さんは、なんだかほっとするような顔をする。やっと、美香ちゃんの事について話せる人が見つかったのではないかと、なんだかうれしい気持ちになった。

「とにかく、美香ちゃんの事は、病院でしっかり診察を受けて、もう学校も変わって、美香ちゃんが幸せになれるようにしてやってください。」

ジャックさんにそういわれて、美香ちゃんのお母さんは、やっと学校を変わろう!という気持ちになった。そう、こういう仲間がいれば、人間は、これからやっていこうという気になれるものなのだ。そして、美香ちゃんと、武史君は、二人で一緒におはじきをして、楽しそうにやっている。こういう事こそ、つらい人生に華を添えてくれるという事かも知れなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

出会い、鬱の華 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る